差額原価と埋没原価
Relevant Cost and Sunk Cost ・ さがくげんかとまいぼつげんか
意思決定で考慮すべき原価とすでに回収不能で無視すべき原価を区別する考え方
概要
「この注文を受けるべきか」「この部品は内製すべきか外注すべきか」——経営の意思決定では、選択肢を比べて有利な方を選びます。このとき比較に使ってよい原価と、使ってはいけない原価がある、というのがこの語彙のテーマです。選択によって金額が変わる原価を差額原価(関連原価、レレバント・コスト)と呼び、どちらを選んでも変わらない原価、とりわけ過去にすでに支出してしまい取り戻せない原価を埋没原価(サンク・コスト)と呼びます。
原則はきわめてシンプルです。意思決定に関係するのは、これからの選択で変わる金額だけ。すでに払ってしまった金額は、どんなに大きくても判断材料にしてはいけない。 たとえば10億円かけて途中まで作った工場を完成させるか中止するかを決めるとき、判断材料は「これから追加でかかる金額」と「完成したら得られる金額」の比較だけであり、すでに投じた10億円は完成させても中止しても戻らないので考慮外です。
頭では分かっていても、人は「もったいない」という感情に引きずられて埋没原価を判断に混ぜてしまいます。これはサンク・コストの誤謬(コンコルド効果)として知られる、人間の意思決定の代表的な落とし穴です。差額原価と埋没原価の区別は、この罠から会計の力で身を守るための道具だと言えます。
なぜ生まれたか
原価計算は元来、製品の原価を漏れなく集計するために発達しました。財務諸表を作る目的なら、材料費も人件費も工場の減価償却費も配賦して「全部原価」を計算するのが正解です。ところが20世紀半ば、この全部原価をそのまま意思決定に使うと判断を誤ることが認識されるようになりました。たとえば「1個の全部原価が800円の製品に、600円でよければ買うという特別注文が来た」とき、全部原価と比べれば赤字に見えます。しかし工場に遊休能力があるなら、追加でかかるのは材料費などの変動費400円だけで、600円の注文は1個200円の利益を上乗せします。
つまり「正しく集計された原価」と「意思決定に役立つ原価」は別物であり、目的が違えば使うべき原価も違う——「異なる目的には異なる原価を」という標語のもと、意思決定のためには選択肢間で変化する部分だけを取り出して比較する差額原価収益分析が体系化されました。財務会計のための原価計算から、経営の選択のための会計(意思決定会計)が枝分かれした瞬間です。
詳細
原価を「意思決定との関係」で分類し直す
意思決定会計では、原価を発生形態(材料費・労務費など)ではなく、いま検討している選択との関係で分類し直します。中心となる概念は三つです。
差額原価は、選択肢の間で金額が異なる原価です。注文を受ければ発生し、断れば発生しない材料費は差額原価です。逆に、どちらを選んでも同額かかる本社の家賃は、この意思決定にとっては無関連原価です。収益側も同様に考え、選択肢間の収益の差(差額収益)と差額原価を比べた純額(差額利益)がプラスになる案を選びます。
埋没原価は、過去の支出によってすでに確定しており、これからのどの選択によっても取り戻せない原価です。研究開発に投じた費用、購入済みで転用も売却もできない専用設備の帳簿価額などが典型です。埋没原価は定義上すべての選択肢で共通なので、必ず無関連原価になります。
機会原価は、ある案を選んだために失われる「他の案なら得られたはずの利益」です。帳簿には一切記録されませんが、意思決定では立派な原価として扱います。自社ビルの空きフロアを自分の事業に使う案を評価するなら、「貸せば得られたはずの賃料」を原価に数えるのが機会原価の発想です。帳簿に載る原価だけを見る癖がついていると見落としやすい、意思決定会計ならではの概念です。
この図の面白さは、直感との「ねじれ」にあります。帳簿にしっかり記録されている埋没原価は捨て、帳簿のどこにも載っていない機会原価は数える。会計記録をそのまま信じるのではなく、意思決定という目的に合わせて原価情報を組み替えるところに、この考え方の本質があります。
典型的な意思決定問題
差額原価収益分析が活躍する場面には定番の型があります。特別注文の受諾可否では、遊休能力の範囲内なら変動費を上回る価格で受ければ差額利益が出ます。ここでの判断は、変動費と固定費の区分と、価格が変動費をどれだけ上回るかを見る貢献利益の考え方に直結しています。内製か外注かの選択では、外注価格と比較すべきは内製の全部原価ではなく、内製をやめれば消える原価(回避可能原価)だけです。内製をやめても工場の減価償却費が消えないなら、それは比較に入れてはいけません。製品ラインの廃止判断も同様で、赤字製品でも貢献利益がプラスで、配賦されている固定費が廃止後も消えないなら、廃止するとかえって全社の利益は悪化します。
いずれの型でも、間違いのパターンは共通しています。全部原価計算で配賦された固定費を「その案の原価」と見なしてしまうこと、そして過去の投資額を「回収しなければ」と将来の判断に混ぜてしまうことです。
サンク・コストの誤謬 — 会計が心理の罠に効く
埋没原価を無視せよという原則は、論理としては明快ですが、実行は困難です。超音速旅客機コンコルドの開発は、採算が合わないと判明した後も「ここまで投じたのだから」と続行され、サンク・コストの誤謬の代名詞になりました。失敗しかけたシステム開発プロジェクトへの追加投資、値下がりした株を「買値に戻るまで」持ち続ける行動など、同じ構図は至るところにあります。
この罠に対する実務的な処方箋が、意思決定のたびに「ゼロベースで、これからの差額だけの表を作る」ことです。過去の支出を書く欄がない比較表を作れば、埋没原価は物理的に判断へ混入できません。感情に「気をつける」のではなく、埋没原価が入り込めない計算の型を使う——これが意思決定会計の実践的な価値です。
適用範囲と限界
差額原価による判断は、既存の生産能力を前提とした短期の意思決定に適した方法です。遊休能力があるから固定費を無視できるのであって、注文を受けるために設備の増設が必要なら、その支出は立派な差額原価として計算に入ります。さらに投資の効果が数年に及ぶ場合は、時間の価値を考慮する設備投資の意思決定の枠組みへと発展します。また「変動費さえ回収できれば受注してよい」を常態化させると、全体としては固定費を回収できず赤字に陥ります。会社全体でどれだけ売れば固定費を賄えるかは損益分岐点の分析で押さえておく必要があります。短期の差額計算と、全体・長期の採算管理を組み合わせて初めて、この道具は安全に使えます。
