ミクロ経済●●●○○

ナッジ

Nudge ・ なっじ

禁止も金銭の誘因も使わず、初期設定や見せ方の工夫で、選ぶ自由を残したまま行動を後押しする設計

✦ 30秒で試す — 航海選択肢を1つも減らさずに、加入率を跳ね上げる方法がある申し込みの手続きを最も軽くすると、加入率は?予想してみる

概要

ナッジ(nudge、原義は「ひじで軽くつつく」)とは、禁止も命令も金銭的な報酬も使わずに、選択肢の見せ方 — 何が初期設定か、どんな順番で並ぶか、どう表現されるか — を工夫して、人々を望ましい行動へそっと後押しする手法です。社員食堂で野菜を目の高さの取りやすい位置に置く。企業の年金への加入を「申し込めば加入」から「最初から加入済み、嫌なら脱退」に変える。どの例でも、選べる選択肢そのものは一切変わっていません。変わったのは見せ方だけなのに、行動は大きく変わります。

この概念は、行動経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンが2008年の著書『Nudge』(邦訳『実践 行動経済学』)で広めました。背後にあるのは行動経済学の中心的な発見です。人の選択は、選択肢の中身だけでなく、選択が置かれた環境(選択アーキテクチャ)に強く左右されます。そして、選択アーキテクチャに「中立」は存在しません。食堂の料理は必ず何かの順番で並び、申込書のチェックボックスは必ずオンかオフのどちらかが初期値になります。どうせ何かの設計が行動に影響してしまうなら、意識的に良い方向へ設計しよう、というのがナッジの出発点です。

なぜ生まれたか

ナッジが出てくる前、政府や組織が人々の行動を変えたいときの道具は、実質的に3つしかありませんでした。法律で禁止・義務化する規制、税や補助金で損得を変える金銭的なインセンティブ、そして情報を提供して説得する教育・啓発です。どれも、人は損得を合理的に計算して動くという前提に立っています。合理的な人になら、正しい情報と正しい価格を与えれば、正しい行動が返ってくるはずだからです。

行動経済学は、この前提が体系的に崩れる場面を積み上げてきました。人は目先の満足を過大に見て、大事な手続きを先延ばしします(現在バイアス)。同じ内容でも「生存率90%」と「死亡率10%」で判断を変えます(プロスペクト理論が示したフレーミング)。複雑な選択を前にすると、選ぶこと自体を放棄します。老後資金の大切さを知識として理解している人が、加入手続きの書類一枚を何年も放置する。情報も損得もそろっているのに行動が起きないこの隙間を埋める、4つ目の道具としてナッジが提案されました。

決定的な証拠になったのが、ブリジット・マドリアンとデニス・シェイの2001年の研究です。米国のある企業が、401(k)(確定拠出年金)を「申し込めば加入」から「自動加入、嫌なら脱退」に切り替えました。すると、新しく入った社員の加入率は37%から86%に跳ね上がりました。制度の中身も、会社の上乗せ拠出も同じで、変えたのは初期設定だけです。セイラーらはこの立場を「リバタリアン・パターナリズム」と名付けました。選ぶ自由は完全に残す(リバタリアン)が、何もしなかった人が良い結果になるよう初期設定は面倒を見る(パターナリズム)、という一見矛盾する2語の組み合わせです。

詳細

最強のナッジ — デフォルト(初期設定)

数あるナッジの中で、もっとも効果が大きく再現性が高いのがデフォルトの設計です。人は現状を維持する傾向が強く、変更の手続きがどれほど簡単でも「何もしない」を選びがちです。だとすれば、「何もしなかった人がどこに着地するか」を決めるデフォルトは、事実上、多数派の行動を決めることになります。

オプトイン — 申し込めば加入デフォルト: 未加入何もしない人はここに留まる加入には手続きが必要37%新入社員の加入率は低くとどまるオプトアウト — 脱退は自由デフォルト: 加入済み何もしない人はここに留まる脱退には手続きが必要86%加入率は大きく上がるどちらの方式でも「加入する自由」と「加入しない自由」は完全に残っている変わったのは、先延ばしする人がどちら側に着地するかだけ
デフォルト効果 — 選択肢は同じでも、初期設定の側に「何もしない人」が留まる(加入率はマドリアンとシェイ、2001年)

デフォルトが効く理由は1つではありません。手続きの手間という小さな摩擦があります。現在バイアスによる先延ばしがあります。「初期設定は推奨なのだろう」という暗黙のメッセージの読み取りもあります。さらに、いったんデフォルトの側に置かれると、そこから離れることが「損」に感じられる損失回避も効きます。書類一枚、クリック一回というほんの小さな摩擦が行動を大きく左右することこそ、人は損得を完全に計算するという想定から見たときの最大のずれであり、限定合理性の見方がもっとも実用的に効いた場面でした。

部品で確かめてください。100人のうち85人は本心では加入したい人(緑青)、15人は今お金が要るので脱退したい人(桃)です。加入したい人の動機は弱く(得は遠い将来にある)、脱退したい人の動機は強い、という違いがあります。

⚡ 体験: デフォルトを切り替え、手続きの壁を動かす
加入 37人未加入 63人(デフォルト)新しく入った100人何もしない人手続きの壁 1.5
加入率37%脱退したい人のうち脱退できた15/15人取り残された人48人
デフォルト

デフォルトの向きを切り替え、真ん中の壁の上端をつかんで上下させてください。緑青=本心では加入したい人、桃=脱退したい人。壁を越えられなかった人には朱の輪が付きます。

上から100人が落ち、何もしなければデフォルトの側に着地する。本心と逆の側に置かれた人は、動機が壁より強ければ壁を越える。朱の輪=越えられずに取り残された人

デフォルトを切り替えると、何もしない人の着地点がまるごと入れ替わります。壁を高くすると、本心と違う側に置かれた人が閉じ込められます。加入したい人を加入に導くのは「デフォルト」で、脱退したい人を解放するのは「出口の軽さ」です。2つの道具は別々のものです。

臓器提供 — 同意率と提供数は別物

エリック・ジョンソンとダニエル・ゴールドスタインの2003年の研究(Science 誌)は、欧州の国々の臓器提供の意思表示を比べました。「申し出れば提供者になる」国の同意率は1桁台から約30%でした。これに対し、「申し出なければ提供者とみなす」国では86%から99.98%でした。デフォルトの威力を示す、もっとも有名な図です。

ただし、実際の提供の数の差は、同意率の差ほど大きくありません。推定同意の国でも、実際には家族の意向を確認するのが普通で、提供の数は医療体制(移植の調整役の数、脳死判定の手順)に大きく左右されるからです。アバディとゲイ(2006年)の比較では、推定同意の国の提供率は他の条件をそろえて25〜30%ほど高いという推定でした。効果はありますが、同意率の図から想像するほど劇的ではありません。ナッジが動かせるのは「最初の一歩」で、その先の仕組みが整っていなければ成果にはつながらない、という教訓です。

デフォルト以外の道具箱

フレーミングは同じ情報の表現を変える手法です。省エネの通知に「近所の同じような家庭より20%多く電気を使っています」と書く社会規範型のナッジは、米国の Opower 社の大規模な実験で、電力消費を平均2%ほど下げました(オールコット、2011年)。単純化は、複雑な書類を減らして摩擦そのものを取り除く手法で、税務の窓口で奨学金の申請書の記入を手伝うと、大学への進学が増えたという実験があります(ベッティンガーら、2012年)。リマインダーやタイミングの設計(給料日に貯蓄を促す)、選択肢の構造化(多すぎる選択肢を絞り、比べやすく並べる)も定番です。共通するのは、禁止もせず、インセンティブの構造を変えるほどのお金も動かさず、判断のクセに寄り添って設計する点です。

政策への実装と、実地の効果の大きさ

2010年、英国政府は内閣府に世界初の専門組織「行動洞察チーム(BIT、通称ナッジ・ユニット)」を設けました。納税の督促状に「あなたの地域の大多数はすでに納税しています」と一文を加えるだけで納付が早まる、といった成果を挙げます。BITは2014年に政府から切り離されて社会的企業になり、2021年からは英国のイノベーション財団 Nesta の傘下にあります。手法は各国に広がり、日本でも2017年に環境省が「日本版ナッジ・ユニット(BEST)」を立ち上げました。ナッジの普及は、政策をランダム化比較試験で確かめる文化 — 証拠に基づく政策形成(EBPM)— を行政に持ち込んだという点でも画期的でした。

一方、効果の大きさは、初期の論文が示したほどではありませんでした。デラヴィーニャとリノス(2022年、Econometrica 誌)は、米国の2つのナッジ・ユニットが行った126の実験(対象は延べ2300万人)をすべて集めました。そして、学術誌に載ったナッジの実験の平均効果が約8.7ポイントなのに対し、実地の平均効果は約1.4ポイントだと示しました。差の大部分は、学術誌が「効いた実験」を載せやすい出版バイアスで説明できるといいます。ナッジの効果の大きさを示したメタ分析(Mertens ら、2022年)に対しては、出版バイアスを補正すると効果の証拠がほぼ消えるという反論も出ました(Maier ら、2022年)。とはいえ、1.4ポイントでも費用がほとんどかからないので、費用対効果では多くの政策に勝ります。「ナッジは魔法ではないが、安い」というのが、いまの実証の相場観です。

批判と限界 — スラッジ、そして「ナッジで足りるのか」

第一の批判は、操作性です。本人が気づかないうちに行動を変える技術は、使い手の善意に依存します。同じ技術を企業が自社の利益のために使えば、解約ボタンを見つけにくくする、不利な初期設定を仕込むといった「ダークパターン」になります。セイラーは2018年、良い行動を妨げる摩擦や悪い誘導を「スラッジ(ヘドロ)」と呼び、「ナッジせよ、スラッジするな」と訴えました。部品で見たとおり、デフォルトを加入にしても、脱退の壁を高くしたままでは「選ぶ自由を残す」という前提そのものが崩れます。2023年には米連邦取引委員会(FTC)が、有料会員の解約手続きの複雑さを問題にしてアマゾンを提訴しました。ナッジの倫理の条件としてよく挙げられるのは、種明かしをされても本人が納得できること(透明性)と、本人自身の利益になることです。

第二の批判は、「本丸の回避」です。気候変動のような大問題に対して、レジ袋のナッジで満足して、ピグー税のような本格的な価格付けや規制を怠るなら、ナッジはむしろ改革の障害になる、という指摘です。ナッジは規制・課税・教育を置き換える道具ではありません。それらが届かない隙間を埋める補完的な道具 — この位置づけを見失わないことが、実務での正しい使い方です。

試問

ある会社の年金は「申し込めば加入」で、手続きも重めです。この設計を作り直します。

✦ 命題挑戦中

加入率を8割以上にしつつ、脱退を望む人の9割以上が実際に脱退できる設計を作れ

  • 加入率が 80% 以上(いま 1%)
  • 脱退を望む人の 90% 以上が、実際に脱退できている(いま 15/15人)
⚡ 体験: デフォルトと手続きの重さを設計する
加入 1人未加入 99人(デフォルト)新しく入った100人何もしない人手続きの壁 6.0
加入率1%脱退したい人のうち脱退できた15/15人取り残された人84人
デフォルト

いまの制度は「申し込めば加入」で、手続きの壁も高めです。デフォルトの向きと壁の高さ(壁の上端をつかむ)を変えて、条件を満たす設計を作ってください。

上から100人が落ち、何もしなければデフォルトの側に着地する。本心と逆の側に置かれた人は、動機が壁より強ければ壁を越える。朱の輪=越えられずに取り残された人