行動経済学
Behavioral Economics ・ こうどうけいざいがく
人の判断が合理性から予測できる向きにずれることを、実験で確かめて経済学に組み込む分野
✦ 30秒で試す — 航海1円でももらえば得なのに、人は受け取りを断るルールを変えた後、提案側が渡す額の平均は?予想してみる概要
行動経済学は、「実際の人間はどう判断し、どう行動するか」を心理学の知見と実験で確かめ、経済学の理論に組み込む分野です。伝統的な経済学は、どんな計算もこなし、決めた計画をやり抜き、自分の利益だけを最大化する「ホモ・エコノミクス(経済人)」を仮定して理論を組み立ててきました。行動経済学はこの仮定を検証台に載せ、人間の判断が合理性から系統的に — つまりランダムにではなく、予測できる向きに — ずれることを示しました。
たとえば、同じ手術でも「生存率90%」と言われれば受け、「死亡率10%」と言われればためらいます。1000円を拾った喜びより、1000円を落とした痛みのほうがずっと大きく感じられます。ジムの年会費は払うのに通わない人が大勢います。こうした「あるある」は気まぐれではなく、同じ条件を作れば何度でも再現できるパターンです。ずれ方に規則性があるから、理論にでき、予測や制度設計に使えます。これが行動経済学の核心です。
土台になった考え方が、人間の計算力・時間・情報には限りがあるという限定合理性です。この分野の研究者は、ノーベル経済学賞を何度も受けています。心理学者のダニエル・カーネマン(2002年)、経済学者のリチャード・セイラー(2017年)が代表で、いまでは経済学の主要な分野のひとつです。
なぜ生まれたか
ホモ・エコノミクスの仮定は、現実離れしていることを承知のうえで採用された「便利な単純化」でした。人々がインセンティブに反応し、価格を見て損得を計算すると仮定すれば、需要と供給をはじめとする強力な理論を数学で組み立てられます。市場全体の大づかみな動きを予測するぶんには、この単純化はよく働きました。
ところが20世紀後半になると、この仮定では説明できない「アノマリー(例外現象)」が積み上がっていきます。同じ人が保険と宝くじを同時に買います。前者はリスクを嫌う行動、後者はリスクを好む行動です。株価は、企業の利益の見通しで説明できる幅を超えて乱高下し、バブルを膨らませては崩れます。これは、市場価格は情報を正しく織り込むという効率的市場仮説とぶつかる現象でした。例外が多すぎて、例外と呼べなくなってきたのです。
転機は1970年代でした。心理学者のカーネマンとエイモス・トヴェルスキーが、人間の判断のずれを実験で系統的に測り始めます。1974年の論文(Science 誌)でヒューリスティック(判断の近道)が生むバイアスを整理し、1979年には不確実な状況での選択のずれをプロスペクト理論にまとめました(Econometrica 誌)。これを経済学の側で受け止めたのがセイラーです。1980年の論文「消費者選択の実証理論に向けて」は、保有効果やサンクコストへの固執など、経済理論が「ありえない」とする行動を並べ、それを説明する理論を求めました。
2002年のノーベル経済学賞は、カーネマンと、実験室で市場を再現する実験経済学を開いたヴァーノン・スミスの同時受賞でした。心理学の実験と経済学の実験が、同じ年に経済学の中心に迎えられたことになります(トヴェルスキーは1996年に死去していて受賞を逃し、カーネマンも2024年3月に死去しました)。重要なのは、この流れが「人間は不合理だから経済学は役に立たない」という破壊ではなかったことです。ずれが予測できるなら、それを織り込んだより正確な理論が作れる、という建設でした。
詳細
3つの仮定がゆるめられた
行動経済学が書き換えたのは、ホモ・エコノミクスを支える3つの仮定です。セイラーの整理にならうと、完全な合理性は限定合理性に、完全な意志力は「限定的な意志力」に、完全な利己性は「社会的選好」に置き換わりました。どれも「完全に」を「たいてい、ただし決まった向きにずれる」に改めたものです。
1つ目の限定合理性の背後には、カーネマンが「システム1」「システム2」と呼んだ2つの思考のモードがあります。システム1は直感的・自動的で速く、システム2は論理的・意識的で遅い思考です。日常の判断の大半は省エネなシステム1が処理します。この分業はふだんは効率的ですが、システム1が使うヒューリスティックが、特定の状況で決まった向きの誤り(バイアス)を生みます。2つ目の限定的な意志力は、現在バイアスとして定式化されました。「来月から貯金する」と決めた自分を、来月の自分が裏切る — 時間とともに好みが入れ替わる現象です。
社会的選好 — 最後通牒ゲーム
3つ目の仮定の崩れ方をもっとも鮮やかに示したのが、ギュート、シュミットベルガー、シュヴァルツェが1982年に発表した最後通牒ゲームの実験です。2人のうち提案者が、渡された1000円の分け方を相手に提示します。相手(応答者)は受け入れるか拒否するかだけを選べて、拒否すると2人とも0円になります。利己的な応答者なら、1円でも0円よりましなので必ず受け入れます。それを見越した提案者は、最小の額を提示するはずです。ゲーム理論でのこの答え(部分ゲーム完全均衡)は、これ以上ないほど明快です。
実験の結果は違いました。多くの国の多くの実験で、提示の最頻値は40〜50%、平均でも30〜40%程度です。20%を下回る提示は、半分ほどが拒否されます(Camerer『Behavioral Game Theory』2003年の整理)。応答者は、自分も損をしてでも不公平を罰します。提案者の側も、それを見越して多めに出します。気前がよいからとは限りません。拒否されるのが怖いから多めに出すのです。人は自分の利得だけでなく、分け方の公平さや相手の意図にも価値を置きます。これを社会的選好と呼びます。ヘンリックらが15の小規模社会で行った実験(2001年)では、平均の提示が26%から58%まで社会によって大きく違いました。何が公平かの感覚は、市場や協力の慣習に根ざした文化的なものでもあります。
提案者の立場で、この群れにいくら出すのが得かを確かめてください。応答者40人は、それぞれ「これ未満なら拒否する」しきい値を心の中に持っています。点は、提示ごとの期待利得(手元の取り分 × 受け取ってもらえる割合)です。
あなたは1000円を受け取り、相手に分け前を提示します。相手が拒否すると2人とも0円。提示の線をつかんで左右に動かし、離して群れの反応を見てください。
横軸=相手への提示割合、縦軸=あなたの期待利得。破線=利己モデルの予測(全員が受け取る)。粒=応答者40人(緑=受諾、朱=拒否)
破線(利己モデルの予測)と実際の点の差が、公平への選好が生んだ分です。少額の提示では、手元の取り分は大きくても、拒否が多くて期待利得が崩れます。多めに出すと受け取ってもらえますが、手元が細ります。この掛け算の山の頂上は、利己モデルの答えからはるか右にあります。社会的選好は「利己モデルに雑音が乗ったもの」ではなく、最適な行動の位置そのものを動かす力なのです。
代表的なバイアスと応用
判断の入り口をゆがめるものに、最初に見た数字に引きずられるアンカリングがあります(定価を見せてからの割引表示が効くのはこのため)。思い出しやすい事例ほど多いと見積もる利用可能性ヒューリスティックもあります(飛行機事故の報道の直後は飛行機が怖くなります)。選択の場面では、損失を同じ額の利得より重く感じる損失回避を軸にしたプロスペクト理論が中心の理論です。今の状態を変えたがらない現状維持バイアスも、自分の持ち物を高く評価する保有効果も、ここから説明できます。すでに払って戻らない費用に判断が引きずられるサンクコストの誤りは、撤退の決断を鈍らせます。
応用は2つの大きな流れになりました。1つは制度設計です。判断のクセを踏まえ、選択の自由を残したまま望ましい行動を後押しする仕掛けはナッジと呼ばれ、年金の自動加入などで各国の政策に取り入れられました。もう1つは金融市場への応用である行動ファイナンスです。損失回避や群集心理が価格をゆがめうることを示し、バブルの生成と崩壊を理解する手がかりを与えました。
再現性の危機 — どの発見が頑健か
この分野を学ぶうえで、2010年代の「再現性の危機」は避けて通れません。2015年、心理学の100の研究を追試した大規模な共同プロジェクト(Open Science Collaboration)で、元の論文と同じ向きの有意な結果が出たのは約4割にとどまりました。行動経済学に近い話題では、「意志力は使うと減る」という自我消耗(ego depletion)が、2016年の20を超える研究室の事前登録の追試で、ほぼ効果なしという結果になりました。一部のプライミング効果(言葉を見せるだけで行動が変わる、という類の研究)も追試で再現されていません。
頑健とされる発見にも留保が要ります。損失回避の大きさは「損は得の約2倍」とよく言われます。これには、条件によっては損失回避が見られないという批判があります(Gal & Rucker、2018年)。一方、607の推定値をまとめたメタ分析(Brown・Imai・Vieider・Camerer、2024年)は平均を約1.96と推定しており、「ある。ただし大きさは測り方と場面で動く」と受け取るのが妥当です。ナッジも、学術誌に載った実験の平均効果が約8.7ポイントなのに対し、政府のナッジ・ユニットが実地で行った126の実験の平均は約1.4ポイントでした(DellaVigna & Linos、2022年)。効果が消えたわけではありません。論文になる実験が「効いたもの」に偏っていたのです。
さらに、研究不正の事件もありました。2021年、保険の申告書で「署名を冒頭に置くと正直になる」という有名な研究(2012年)の実地データが捏造されていたことが明らかになり、論文は撤回されました。この研究の共著者だったダン・アリエリーとフランチェスカ・ジーノをめぐっては、2023年にジーノが関わった複数の論文も撤回されています。どの発見が大規模な追試と事前登録を経ているかを確かめる姿勢が、いまの行動経済学を読むための前提です。
落とし穴 — バイアスの名前の暗記に陥らない
この分野は「人間は不合理だ」という主張ではありません。多くのヒューリスティックは、限られた時間と情報で素早く判断するための有能な近道です。問題になるのは、それが現代の特定の環境(複雑な金融商品、解約しにくいサブスクリプション、無限にスクロールするSNS)と噛み合わないときです。また、バイアスの名前を覚えること自体には価値がありません。「この場面で、誰の、どの判断が、どちら向きにずれるか」を予測し、制度や商品の設計に反映できて初めて、行動経済学は道具になります。
試問
しきい値の見えない、新しい応答者の群れが相手です。群れは毎回変わるので、前の答えは使えません。
新しい群れです。しきい値は見えません。提示の線を動かして離し、群れの反応から、期待利得がいちばん大きくなる提示を探し当ててください。
横軸=相手への提示割合、縦軸=あなたの期待利得。破線=利己モデルの予測(全員が受け取る)。粒=応答者40人(緑=受諾、朱=拒否)
