標準ピッチ
Concert Pitch ・ ひょうじゅんぴっち
ラ=440Hzという国際的な取り決め。合奏を成立させる高さの原点合わせ
概要
標準ピッチ(コンサートピッチ)とは、「真ん中のドのすぐ上のラ(A4)=440Hz」という、音の高さの絶対的な基準の国際的な取り決めです。音律が「音同士の相対的な間隔をどう決めるか」の体系だとすれば、標準ピッチは「その体系全体を周波数のものさしのどこに置くか」という原点合わせです。この2つが揃って初めて、すべての音の音高が具体的な周波数として確定します。
オーケストラの演奏会で、開演直前にオーボエが「ラー」と1音を伸ばし、全員がそれに合わせる光景を見たことがあるかもしれません。あれがまさに標準ピッチの現場です。数十人の奏者がそれぞれ別の場所で調律してきた楽器を、その場でひとつの基準に揃える——合奏という営みは、この原点合わせなしには成立しません。
なぜ生まれたか
19世紀半ばまで、「ラの高さ」は世界共通どころか町ごとにばらばらでした。基準になったのは各地の教会のオルガンや宮廷の楽器で、記録に残る歴史上のラは約380Hzから480Hzまで、実に半音2つ分以上の幅で散らばっています。楽器を携えて都市を移動する演奏家は行く先々で音の高さが違い、ある町向けに作られた管楽器は別の町では使いものになりませんでした。さらに19世紀には、オーケストラが弦の張りの強い華やかな響きを求めてピッチを競うように上げていく「ピッチ・インフレ」が進行し、書かれた時代より高い音を歌わされる歌手の喉を痛める深刻な問題になりました。
これに歯止めをかけるため、1859年にフランス政府がラ=435Hzを法制化し(diapason normal)、1939年のロンドン国際会議でラ=440Hzが国際基準として採択されます。この合意は1955年にISO 16として規格化され、今日の「A440」に至ります。音楽の取り決めが国際標準規格になっている、少し珍しい例です。
詳細
相対の体系と絶対の原点
音律と標準ピッチの役割分担を整理しておきましょう。たとえば平均律は「隣り合う半音はすべて同じ比率」という相対関係しか定めておらず、それだけでは各鍵の周波数は決まりません。そこにラ=440Hzという1点を与えると、そこから比率をたどってすべての音が確定します(真ん中のドは約261.6Hz、1オクターブ上のラは880Hz、という具合です)。音律が地図の縮尺と目盛りなら、標準ピッチは地図を実際の土地に固定するピンだと言えます。
歴史のなかの「ラ」
図のとおり、歴史のラは広い帯の中を漂ってきました。バロック音楽の古楽演奏で標準的に使われるラ=415Hzは、現代の440Hzのほぼ1半音下(約100セント下)にあたります。415という一見半端な値が選ばれたのは、まさに「440のちょうど半音下」だと、チェンバロの鍵盤を1つずらすだけで現代ピッチの楽器と共演できるという実用上の理由からです。ほかにもフレンチ・バロックの392Hz(440の全音下)、古典派向けの430Hz前後など、時代様式ごとの再現ピッチが使い分けられています。
現代の運用 — 440は絶対ではない
ISO標準は440Hzですが、現在も多くのオーケストラ、特にヨーロッパの楽団は442〜443Hzで演奏しています。わずかに高いほうが弦の響きが明るく輝かしくなるとされるためで、ピッチ・インフレの引力は今も完全には消えていないのです。チューニングの基準音をオーボエが出すのは、音がまっすぐ通って全員に聴き取りやすいことに加え、構造上その場で音の高さを大きく調整しにくい楽器だから「合わせる側」ではなく「基準側」に置く、という合理的な理由によります。奏者が音を合わせるときの耳の手がかりはうなりで、2つの音がわずかにずれているとワンワンという周期的な揺れが聞こえ、それが消えた瞬間が「合った」瞬間です。
用語の注意と俗説
「コンサートピッチ」という語には、A440そのものとは別にもう1つの用法があります。クラリネットやトランペットのような移調楽器(楽譜上のドが実音のドと異なる楽器)の世界で、「実音=コンサートピッチ」と呼ぶ用法です。「コンサートピッチのB♭」と言えば、記譜がどうであれ実際に鳴っている変ロの音を指します。楽譜と実音の移調関係を語るときに頻出するので混同に注意してください。なお、「ラ=432Hzは宇宙の周波数で、440Hzより癒やし効果がある」といった言説がインターネット上に流布していますが、音響学的・生理学的な根拠は確認されていません。標準ピッチの歴史が示すのはむしろ、基準のラに自然法則上の特別な値はなく、あくまで人間どうしの合意で決まってきたという事実です。
