逆選抜
Adverse Selection ・ ぎゃくせんばつ
相手の隠れた性質が見えないせいで、条件に惹かれて来るのが悪い相手ばかりになる。取引前に起きる情報の失敗
✦ 30秒で試す — 航海値上げで赤字を埋めるほど、客が逃げて赤字が増える赤字のたびに保険料を上げ続けると、加入者は?予想してみる概要
逆選抜(逆選択とも訳されます)は、取引相手の隠れた性質が分からないせいで、望ましくない相手ばかりが集まってしまう現象です。医療保険を平均的な保険料で売り出すと、健康に自信のある人は「自分には割高だ」と加入せず、病気がちな人ほど「割安だ」と加入します。保険会社が選んだつもりの顧客は、実は顧客の側が自分に有利なときだけ選んで来ている — 選抜が逆向きに働くことから、この名前が付いています。
本来、市場の価格は良い取引相手を引き寄せるための道具です。しかし相手の質が見えない市場では、提示した条件そのものが「その条件で得をする相手」をふるい分けるフィルターとして働いてしまいます。金利を上げれば返済に自信のない借り手ばかりが応募し、一律の条件で希望退職を募れば他社でも通用する人から手を挙げます。情報の非対称性が「取引の前」の段階で起こす失敗が逆選抜で、契約の後に行動が歪むモラルハザードと対をなす概念です。
なぜ生まれたか
逆選抜という言葉は、もともと保険業界の実務用語でした。保険会社は経験的に「保険を熱心に欲しがる客ほど危ない客だ」と知っており、19世紀から健康診断や告知義務でこれに対抗してきました。しかし、この現象がなぜ起きるのか、放っておくと市場に何が起きるのかを説明する一般理論は、長いあいだありませんでした。
転機は1970年のジョージ・アカロフのレモン市場の理論です。売り手だけが品質を知る中古車市場で、良い車から順に市場を去っていく仕組みが定式化されると、保険・金融・労働の各市場で観察されていた「悪い相手ばかり集まる」現象が、すべて同じ構造 — 取引前の隠れた情報による選別の逆転 — として理解できるようになりました(情報の非対称性)。
さらにマイケル・ロスチャイルドとジョセフ・スティグリッツは1976年、保険市場では逆選抜のせいで、需要と供給が釣り合う市場均衡そのものが存在しないことすらあると示しました。スティグリッツとアンドリュー・ワイスは1981年、同じ理屈で銀行が金利を上げずに貸出を絞る「信用割当」を説明しています。多くの国が健康保険を強制加入にしている理由、日本が1961年に国民皆保険を実現した理由の一つは、この理論で説明できます。
詳細
保険の死のスパイラル
逆選抜の破壊力が最もよく分かるのが、保険市場の「死のスパイラル」と呼ばれる悪循環です。加入者の平均の医療費に見合う保険料を設定すると、平均より健康な人にとっては割高なので加入をやめます。すると残った加入者の平均費用は上がり、保険金の支払いが保険料収入を上回るので、保険会社は保険料を引き上げざるをえません。ところが値上げは、その時点でいちばん健康な層をまた追い出します。このループが回るたびに加入者は病気がちな人へと純化し、最後には保険料が高すぎて誰も入れなくなります。
なぜ値上げのたびに必ず「健康な人から」抜けるのでしょうか。自分の医療費をよく知る人は、それに見合う額までしか払おうとしません。つまり支払ってよい額(支払意思額)は、リスクの高い人ほど高いのです。加入者を支払意思額の高い順に並べると、右へ行くほど健康な人になります。需要曲線の右端にいるのは「いちばん安くないと入らない人」であると同時に「いちばん保険金を使わない人」です。
この見方で描いたのが、アイナフとフィンケルスタイン(2011年)が広めた下の図です。普通の市場では、供給側の費用は「誰が買うか」に関係ありません。ところが保険では、費用が買い手の顔ぶれで決まります。加入率を横軸にとると、限界費用(いちばん最後に加わった人の医療費)は右下がりで、平均費用はその上を緩やかに下がります。
図の例では、全員の平均費用(15万円)で値付けすると、加入率は73%に落ちます。抜けたのは健康な人なので残った人の平均費用は18.2万円に上がり、それに合わせて値上げすると加入率は61%に、次は55%に……と階段を上るように下がり、需要と平均費用が交わる加入率50%・保険料21万円で止まります。右半分の人たちは、自分の医療費より払ってよい額のほうが高い(保険に入ることで双方が得をする)のに、平均で値付けされるせいで入れません。この取り逃した利益(朱の塗り)が、逆選抜による損失です。数字を変えれば、交点が左端まで行ってしまう — 誰も入らなくなる — こともあります。
下の部品で確かめてください。30人の支払意思額(緑青の点)と医療費(朱の棒)が並んでいます。「採算を合わせる」を押すたびに保険料が加入者の平均費用へ上がり、そのたびに右端の健康な人が抜けていきます。
保険料は全員の平均費用 11.0万円 です。この額では誰が入り、誰が入らないでしょう。「採算を合わせる」を押してみてください。
横=30人(払ってよい額の高い順)。緑青の点=この保険料なら入る上限(支払意思額)、朱の棒=その人の予想医療費(本人しか知らない)。白い線=保険料、金の破線=加入者の平均費用、紫=補助
このスパイラルは机上の話ではありません。米国の医療保険改革(ACA、2010年)は、加入を義務づけ、義務を守らない人に罰金を科しました。健康な人をプールに残すための仕掛けです。2017年の税制改正で罰金は2019年からゼロになり、保険料の上昇と健康な加入者の減少が懸念されました(実際には、低所得者向けの保険料補助が保険料の上昇の多くを吸収する仕組みだったこともあり、市場の崩壊には至りませんでした)。多くの国が公的医療保険を強制加入にしている最大の理論的根拠はここにあります。全員が加入すれば、リスクの高い人も低い人もプールに残り、自分で選ぶことによる選別が起きようがないからです。
保険以外のどこにでもある
逆選抜は保険だけの現象ではなく、相手の質が見えない取引すべてに潜んでいます。融資では、銀行が貸し倒れに備えて金利を上げると、堅実な事業計画の借り手ほど「その金利では割に合わない」と去り、一か八かの事業を狙う借り手ばかりが残ります。スティグリッツとワイスは、このために銀行は金利を上げる代わりに、担保や審査で貸す相手を絞る(信用割当)と説明しました。労働市場では、業績の悪い企業が一律の条件で希望退職を募ると、他社でも通用する人から先に手を挙げます。
共通する構造は、価格や条件が選別装置として誤作動することです。普通の需要と供給の世界では、価格を動かせば量が調整されるだけです。しかし相手の質が見えない市場では、条件を動かすと集まる相手の質まで変わってしまいます。売り手や買い手の質が価格の関数になる — この捻れが、逆選抜を普通の市場の分析と分ける核心です。
対抗策 — スクリーニング、シグナリング、強制加入と補助
逆選抜への対抗策は大きく3系統あります。第一に、情報を持たない側が相手をふるい分けるスクリーニングです。告知義務や健康診断は直接的な情報集めですが、より巧妙なのは自分で選ばせる仕掛けです。自己負担が大きい代わりに安いプランと、自己負担のない高いプランを並べると、自分を低リスクと知る人は前者を、高リスクと知る人は後者を選び、隠れた情報が選択を通じて表に出ます。ロスチャイルドとスティグリッツの分析の中心はこの仕組みでした。
第二に、質の良い側が自分から証明するシグナリングです。中古車の売り手が長期保証を付ける、企業が監査済みの財務諸表を公開する — 質の悪い者には真似しにくい行動で、自分が良い側だと信じてもらう戦略です。第三に、制度による強制と補助です。公的医療保険や公的年金の強制加入、自賠責保険の義務化は、自分で選ぶ余地をなくしてプールの崩壊を防ぎます。部品で試せるとおり、加入への補助も健康な人を呼び戻して平均費用を押し下げます。市場の自助努力で埋めきれない情報の差は、こうして市場の失敗への公的介入として制度になってきました。
落とし穴 — いつも逆選抜とは限らない、モラルハザードとの混同
「保険に入る人ほど危ない」は、いつも成り立つわけではありません。フィンケルスタインとマギャリー(2006年)は、米国の長期介護保険で、保険に入る人がむしろ慎重で健康に気をつける傾向があり、リスクの高い人が集まる効果を打ち消していることを見つけました。リスク以外の隠れた性質(用心深さ)が、支払意思額と費用を逆向きに結びつける「有利な選択」です。逆選抜があるかどうかは、理屈ではなくデータで確かめるものなのです。
実務で最も多いつまずきは、逆選抜とモラルハザードの混同です。区別の軸は時間です。逆選抜は契約の前からある隠れた性質(もともと病気がち、もともと返す気が薄い)による選別の失敗で、モラルハザードは契約の後に生じる隠れた行動(保険に入ったから不注意になる)による歪みです。対策も違い、逆選抜には審査・選ばせるメニュー・強制加入や補助が、モラルハザードには自己負担や成果に連動するインセンティブの設計が効きます。「危ない客ばかり集まるのが心配」なのか「入った後の行動が心配」なのか — 診断を間違えると、打った手がまったく効かないことになります。
試問
別の30人の保険市場です。医療費の分布は挑むたびに変わります。
保険料を全員の平均費用に置いた保険です。まず補助なしで「採算を合わせる」を何度か押し、何が起きるか確かめてください。
横=30人(払ってよい額の高い順)。緑青の点=この保険料なら入る上限(支払意思額)、朱の棒=その人の予想医療費(本人しか知らない)。白い線=保険料、金の破線=加入者の平均費用、紫=補助
