情報の非対称性
Information Asymmetry ・ じょうほうのひたいしょうせい
売り手と買い手の知っていることに差があると、良い品から市場を去り取引が縮む。中古車市場が典型
✦ 30秒で試す — 航海検査代を惜しむと、良い車から順に市場を去っていく保証を付けて売るのが得なのは、どんな売り手?予想してみる概要
情報の非対称性とは、取引の一方が他方より多くの情報を持っている状態のことです。中古車の売り手はその車の事故歴やエンジンの調子を知っていますが、買い手には外見しか分かりません。保険に入ろうとする人は自分の健康状態や運転の荒さを知っていますが、保険会社には申込書に書かれたことしか見えません。雇う側は応募者の本当の実力を知らず、お金を貸す側は借り手がどれだけ真面目に返すつもりかを知りません。私たちが日常的に関わる市場の多くは、この「知っている側」と「知らない側」のあいだで取引が行われています。
問題は、情報の差そのものではなく、その差が市場の働きを内側から壊してしまうことにあります。買い手が品質を見分けられないと、良い品にも悪い品にも同じ値段しか付きません。すると良い品の売り手は「正当な値段で売れないなら」と市場から立ち去り、残るのは悪い品ばかりになります。価格が品質を伝えられなくなった市場では、本来なら双方が得をするはずの取引が消えていきます。競争が十分にあっても起きるこの機能不全は、市場の失敗の代表的な類型のひとつです。
なぜ生まれたか
20世紀半ばまでの標準的な経済理論は、「買い手も売り手も商品についてすべてを知っている」という完全情報を暗黙の前提にしていました。この前提の下では、価格メカニズムは品質の差をそのまま価格の差に映し、市場はうまく働くはずです。しかし現実には、状態の良い中古車ほど適正な値段で売れにくく、高齢者向けの医療保険は民間では成り立ちにくい、という理論と食い違う現象がいくらでも観察されていました。
この食い違いを正面から理論にしたのが、ジョージ・アカロフが1970年に発表した論文「レモンの市場」です(レモンは米国の俗語で欠陥中古車のこと)。アカロフは、売り手だけが品質を知っている市場では、買い手が「平均的な品質」を想定した値段しか払わないため、平均より良い品が退出し、それが平均を下げてまた退出を招く — という悪循環で市場が崩れうることを、簡潔なモデルで示しました。当初は複数の学術誌に「当たり前すぎる」「一般的すぎる」と掲載を断られたこの論文は、のちに情報の経済学という大きな分野を開きます。アカロフは、学歴のシグナリングを理論にしたマイケル・スペンス、保険や貸出の市場で起きる逆選抜を分析したジョセフ・スティグリッツとともに、2001年のノーベル経済学賞を受賞しました。
詳細
レモン市場 — 良品が追い出される仕組み
アカロフのモデルを単純にした例で追ってみます。中古車市場に、優良車と欠陥車(レモン)が半々あるとします。優良車の持ち主は「80万円以上なら手放す」、欠陥車の持ち主は「40万円以上なら手放す」と考えています。買い手にとっての価値は、売り手より少し高く、優良車なら90万円、欠陥車なら45万円です。買い手の評価が売り手より高いことが大切で、品質が見えさえすれば、どちらの車も売り手から買い手へ渡ることで双方が得をします(優良車なら1台あたり10万円、欠陥車なら5万円の取引の利益)。
ところが買い手には区別が付きません。半々なら、買い手にとっての平均の価値は (90 + 45) ÷ 2 = 67.5万円なので、それ以上は払いません。この値段では、優良車の持ち主は「80万円の車を67.5万円で手放すのは損だ」と売るのをやめます。市場に残るのは欠陥車だけになり、それに気づいた買い手は45万円しか払わなくなります。欠陥車の取引は成り立ちますが、優良車の取引 — 1台10万円ずつの利益 — は丸ごと消えます。誰も嘘をついていないのに、です。
品質が2種類ではなく連続的にばらついていると、この崩れ方は連鎖になります。付け値が平均で決まると、平均より上の層が去り、残った車の平均が下がって付け値が下がり、また次の層が去ります。
図の例(質が一様にばらつき、買い手の評価は売り手の1.125倍)では、最初の付け値は全車の平均の67.5万円です。これを下限が上回る上位3割強の車が去ると、残りの平均は60.5万円に、さらに56.5万円に……と下がり、質の下から約3割の車だけが残る所で止まります。上から7割の車は、どれも買い手のほうが高く評価しているのに売れません。
この結末で大切なのは、誰も不合理な行動をしていないことです。買い手は見えない品質に対して慎重に期待値で払い、売り手は自分の車の価値に照らして売るかを決めているだけです。一人ひとりの合理的な行動が積み重なった結果、需要と供給がきちんと働く前提そのもの — 価格が品質を映すこと — が崩れてしまうのです。
下の部品で確かめてください。「取引を始める」を押すと、付け値が1巡ごとに下がり、良い車から順に去っていきます。そのあと右端の検査の線を左へ引くと、線より右の車は質が見え、価値どおりに売れるようになります。
買い手には車の質が見えず(灰色)、付け値は残っている車の平均です。まず「取引を始める」を押して、何が起きるか見てください。
横=車(左ほど質が低い)。金の点=売り手が手放してよい額、緑青の刻み=買い手にとっての価値。白い線=質の見えない車への付け値(残っている車の平均)。右の青い帯=検査済み
2つの帰結 — 取引前の逆選抜と取引後のモラルハザード
情報の非対称性が引き起こす問題は、情報の差が「取引の前」にあるか「取引の後」に生じるかで2つに整理されます。取引の前から相手の隠れた性質(車の質、加入者の健康状態)が分からないために悪い相手ばかりが集まるのが逆選抜で、レモン市場はその典型です。契約を結んだ後に相手の隠れた行動(保険加入後の不注意、経営者の怠慢)を見張れないために行動が歪むのがモラルハザードです。保険はこの両方に同時に悩まされる代表的な市場です。
市場と社会が編み出した対抗策
放っておけば壊れる市場を支えるため、情報を持つ側と持たない側の双方が、差を埋める仕組みを発達させてきました。情報を持つ側が自ら品質を証明しようとする行動はシグナリングと呼ばれます。中古車販売店が長い保証を付けるのは「保証を付けても損しないほど品質に自信がある」という合図ですし、求職者が学歴や資格を示すのも労働市場での合図です。逆に、情報を持たない側が相手をふるい分ける仕組みはスクリーニングと呼ばれます。保険会社が自己負担額の違う複数のプランを用意し、加入者に自分で選ばせるのがその例です(逆選抜の記事で詳しく扱います)。
市場の外からの介入もあります。走行距離の改ざんを罰する法律、食品表示の義務、医師や弁護士の免許制度は、「売り手しか知らない情報」を強制的に開示させたり、最低限の品質を保証したりして取引を成り立たせる制度です。第三者による車検や鑑定、そしてレビューサイトや取引プラットフォームの評価の仕組みは、無数の過去の買い手の経験を集めて品質を見えるようにする、新しい対抗策です。部品で見たとおり、こうした情報の手当てにはどれも費用がかかりますが、市場が壊れる所に的を絞って払えば、失われる取引の利益のほうがずっと大きいのです。
実務での使いどころと落とし穴
情報の非対称性は、ビジネスや制度の設計を読み解く強いレンズです。「なぜ銀行は担保や保証人を求めるのか」「なぜ転職市場では在職中の応募者が有利に扱われがちなのか」「なぜフリマアプリは匿名配送と評価制度に投資するのか」— いずれも、見えない品質やリスクをどう推定し、どう保証するかという問題として説明できます。金利を上げれば儲かりそうな銀行が、あえて金利を上げずに貸出の件数を絞る「信用割当」も、高い金利が安全な借り手を追い払ってしまう逆選抜への備えとして説明されます(スティグリッツとワイスの1981年の論文)。
一方で注意したいのは、対抗策そのものにも費用がかかることです。過剰な開示義務や審査は取引を遅くし、シグナル競争(実力と関係の薄い資格の取り合い)は社会全体では浪費になりえます。また、情報の非対称性はしばしば「売り手が悪い」という道徳の話にすり替えられますが、問題の核心は悪意ではなく、価格が品質を映せなくなる構造にあります。情報の差をゼロにすることを目指すのではなく、差を埋める費用と、市場が壊れて失われる取引の利益とを比べて、割に合う所に信頼の仕組みを置く — これが実務的な考え方です。
試問
質の見えない中古車が20台並んでいます。何もしなければ良い車から順に去っていきます。検査は1台3万円かかります。
買い手には質が見えないので、何もしなければ良い車から順に去っていきます。右端の検査の線をつかんで左へ引き、どこから先の車を検査するか決めてください。
横=車(左ほど質が低い)。金の点=売り手が手放してよい額、緑青の刻み=買い手にとっての価値。白い線=質の見えない車への付け値(残っている車の平均)。右の青い帯=検査済み
