裁定取引
Arbitrage ・ さいていとりひき
同じものの価格差から、ほぼリスクなしで利ざやを抜く取引。その行為自体が価格差を消し、一物一価をつくる
✦ 30秒で試す — 航海誰も命じていないのに、為替レートは辻褄が合っていく皆がこの一周を繰り返すと、ずれは最後にどうなる?予想してみる概要
裁定取引(アービトラージ)は、同じもの、あるいは実質的に同じ価値を持つものが、場所や形を変えて違う価格で取引されているとき、安いほうを買って高いほうを同時に売り、その差を利ざやとして抜く取引です。たとえば同じ会社の株式が東京では1,000円、ロンドンでは円に換算して1,010円で取引されていれば、東京で買ってロンドンで売るだけで、株価がその後どう動こうと10円の利益が確定します。値動きに賭けていないので、理屈の上ではリスクなしに利益が得られる — 金融の世界で「フリーランチ(ただ飯)」と呼ばれる状態です。
裁定取引が本当に大事なのは、儲け方の技術であること以上に、市場の価格を規律づける力であることです。価格差を見つけた裁定者が安いほうを買えばその価格は上がり、高いほうを売ればその価格は下がるので、裁定という行為そのものが価格差を消していきます。こうして「同じものは同じ価格になる」という一物一価の法則が成り立ちます。経済学やファイナンスの理論の多くが「裁定の機会は存在しない」という前提から出発するのは、裁定者たちの絶え間ない活動が、その前提を現実に近づけているからです。
なぜ生まれたか
裁定取引は誰かが設計した制度ではなく、市場が複数に分かれた瞬間から自然に生まれてきた行動です。古くは、都市ごとに金と銀の交換比率が違うことを利用した両替商や、産地と消費地の価格差を運送で埋めた遠隔地の商人がその担い手でした。彼らは利ざやを求めて動いただけですが、その結果、地域ごとの価格差は縮まり、ばらばらだった市場がひとつの価格体系に縫い合わされていきました。裁定は、価格メカニズムを市場と市場のあいだで働かせる糸です。通貨どうしの交換比率である為替レートが世界中の取引所でほぼ同じ値に揃うのも、国をまたいだ同じ商品の価格が長い目で見て揃っていくという購買力平価の考え方も、根はこの一物一価です。
裁定がファイナンスの理論の中心に躍り出たのは20世紀後半です。研究者たちは、「裁定機会がない」と仮定するだけで、複雑な金融商品の理論価格が一つに決まることに気づきました。1958年のモジリアーニとミラーの定理(借金の比率を変えても企業の価値は変わらない)も、1973年のブラックとショールズのオプション価格理論も、「もしこの価格からずれたら、リスクなしの儲けが生じる。そんな機会は競争ですぐ消えるはずだから、価格はこの水準にあるはずだ」という無裁定条件の論法で組み立てられています。人の好みや需要曲線を持ち出さずに価格を特定できるこの論法は、デリバティブの値付けを支える現代ファイナンスの背骨になりました。
詳細
価格差が消える仕組み
同じ資産が市場Aで安く、市場Bで高く取引されているとき、裁定者はAで買ってBで売ります。Aでは買い注文が価格を押し上げ、Bでは売り注文が価格を押し下げます。両者が一致したところで利ざやは消え、裁定者は取引をやめます。この調整に中央の管理者はいりません。利益を求める動機だけが、世界中の市場の価格を整合的に保ちます。
三角裁定 — 一周の積が1に揃う
裁定がいちばん鮮やかに見えるのが、3つの通貨の三角裁定です。ドル円が150.00円、ユーロドルが1.0800ドルなら、ユーロ円は 150 × 1.08 = 162.00円でなければ辻褄が合いません。もしユーロ円が159.30円と安く付いていたら、1万円でユーロを買い(62.77ユーロ)、そのユーロでドルを買い(67.80ドル)、そのドルを円に戻すと10,169円 — 一周で約1.7%増えます。値動きの予想は何もしていません。レートの食い違いだけから生まれた利益です。
ところが、この取引を大きな金額で繰り返すと、自分の注文がレートを動かします。円でユーロを買えばユーロ円は上がり、ユーロを売ってドルを買えばユーロドルは下がり、ドルを売れば円高ドル安に動きます。3本の足のどれもが、一周の積を1へ押し戻す向きに働くのです。利ざやは回すたびに薄くなり、積が1に着いたところで消えます。下の部品で確かめてください。円の袋をドルかユーロの頂点へ放ると、その向きに一周の取引が流れます。
三角形の辺が為替レートです。円の袋(左下の金の粒)をつかんで、ドルかユーロの頂点へ放ると、その向きに一周の取引が流れます。辺の上のレートの札をつかんで外へ引くと、レートを歪ませることもできます。
三角形の頂点=通貨、辺=為替レート。中の2つの数字は、円から出発してそれぞれの向きに一周したとき元の円が何倍になるか(一周の積)。右(スマホでは下)は、回すたびの歪み(儲かる向きの積 − 1)
時間をまたぐ裁定 — 先物とオプション
裁定は時間もまたぎます。代表は先物です。1年後に株価指数を受け渡す先物の価格 F は、いま現物を買って1年持ち続けた場合の費用と一致しなければなりません。現物の価格を S、1年の金利を r、その間に受け取る配当利回りを q とすると、おおむね F = S ×(1 + r − q)です(連続複利で書けば、S に e の(r − q)× 年数 乗を掛けた値)。現物を買うにはお金を借りる(金利を払う)必要があり、持っていれば配当がもらえるからです。これを保有コスト(キャリー)の式と呼びます。先物がこれより高ければ「現物を買って先物を売る」、安ければその逆で、確実な利益が抜けます。為替レートの先渡し(将来の受け渡しを約束する取引)の値が2通貨の金利差で決まる金利平価も同じ論法です。
オプションにも同じ関係があります。同じ株式・同じ行使価格 K・同じ満期のコール(買う権利)とプット(売る権利)の価格を C と P とすると、「コールを買ってプットを売る」組み合わせは、満期に株価がいくらでも「株を K で買う」のと同じ結果になります。したがって C − P = S − K ÷(1 + r)でなければ裁定が生じます。これがプット・コール・パリティで、オプションの価格を読むときの基準線です。どちらの式も、将来の株価の予想を一切使っていないことに注目してください。無裁定という条件だけで、価格どうしの関係が決まるのです。
現代では、これらの裁定の多くを、ミリ秒単位で価格差を見つけるコンピュータの高頻度取引が担っており、人の目に見える単純な価格差はほとんど残っていません。これが効率的市場仮説のいう「儲けのチャンスはすぐ消える」状態を、日々つくり出している実働部隊です。
裁定の限界 — 「無リスク」の罠
教科書の裁定は無リスクですが、現実の裁定にはリスクが忍び込みます。第一に執行のリスクです。買いと売りを完全に同時に行えなければ、片方だけ約定した瞬間に価格が動くかもしれません。第二に、「実質的に同じもの」という判断が近似にすぎない場合です。2つの資産の価格差がいずれ縮まることに賭ける取引は、厳密には裁定ではなく相対価値の投資であり、縮まる前にさらに開くことがあります。
シュライファーとヴィシュニーは論文「裁定の限界」(1997年)で、この危うさが市場全体の問題になることを示しました。現実の裁定者は、他人のお金を預かって運用するファンドです。価格差がいったん広がると評価損が出て、出資者は資金を引き揚げ、貸し手は担保を求めます。裁定者は、価格差がいちばん魅力的になったまさにその時に、持ち高を投げ売りさせられるのです。こうして、ゆがみを正すはずの力が、ゆがみの大きい局面ほど弱まります。ロイヤル・ダッチとシェルのように、同じ利益を決まった比率で分け合う双子の株の価格比が、何年も理論値から大きく外れ続けた例も知られています。
この危険を歴史に刻んだのが、1998年のヘッジファンドLTCMの破綻です。ノーベル賞学者を擁した同ファンドは、わずかな価格の歪みをレバレッジで増幅して利益を上げていました。自己資本約47億ドルに対し、貸借対照表の資産は約1,250億ドル(約25倍)。デリバティブの想定元本まで含めると1兆ドルを超え、さらに一桁上の規模でした。ロシアの債務不履行で価格差が「理論的にありえない」水準まで広がると、差が縮まる前に資金が尽き、ニューヨーク連銀の呼びかけで大手金融機関が資本を注入する事態になりました。「市場は、あなたが支払能力を保てる期間より長く、非合理であり続けられる」という格言のとおり、裁定をやり遂げるには、価格差が閉じるまで持ちこたえる体力が要ります。理論上のフリーランチと、現実に食べきれるランチは別物なのです。
裁定が教えてくれること
それでも、裁定は市場を読む強力なレンズです。「この価格差はなぜ放置されているのか」と問えば、取引コスト、規制、資本移動の制限、情報の非対称性といった、裁定を妨げる摩擦が浮かび上がります。国ごとの物価が短期には揃わない(購買力平価が短期には成り立たない)のも、財を運ぶ費用や関税、輸送できないサービスがあるからです。逆に言えば、目の前に「確実に儲かる価格差」が見えたとき、まず疑うべきは「なぜプロがこれを食い尽くしていないのか」です。答えはたいてい「見えていないリスクかコストがあるから」— 裁定の考え方は、うまい話への最良の防御にもなります。
試問
ユーロ円のレートだけが、ほかの2つと食い違っている市場です。取引の大きさを選び、向きを決めて、一周の取引を繰り返してください。
ユーロ円のレートが、ほかの2つと食い違っています。円の袋(左下の金の粒)をつかんで、ドルかユーロの頂点へ放ってください。その向きに一周の取引が流れます。
三角形の頂点=通貨、辺=為替レート。中の2つの数字は、円から出発してそれぞれの向きに一周したとき元の円が何倍になるか(一周の積)。右(スマホでは下)は、回すたびの歪み(儲かる向きの積 − 1)
