インフレ期待
Inflation Expectations ・ いんふれきたい
人々が予想する将来の物価上昇率。賃金と値付けを通じて現実の物価を動かし、その錨の固さが政策の効き目を決める
✦ 30秒で試す — 航海人々が「物価は上がる」と信じるだけで、物価は本当に上がる原油高が落ち着いた数年後、物価の上がり方は?予想してみる概要
インフレ期待とは、家計・企業・投資家が心の中に持っている「これから物価はどれくらい上がりそうか」という予想のことです。ただの予想が経済用語として一項目を占めるのは、この予想が現実のインフレーションを動かす力を持つからです。「来年は物価が3%上がりそうだ」と皆が思えば、労働者は3%の賃上げを求め、企業はそれを見越して値札を3%上げ、消費者は値上がり前に買っておこうとします。その結果、実際に物価は3%近く上がります。予想が現実を作る「自己実現する予言」の構造です。
つまり物価は、モノの需給だけでなく、社会全体の予想にも支えられている数字です。だからこそ現代の中央銀行は、金利の上げ下げと同じくらい真剣に、人々の予想そのものに働きかけます。「物価上昇率2%」という目標を繰り返し掲げるのは、社会の予想を2%に錨(アンカー)のように留めておくためです。予想が錨に留まっていれば、一時的な値上がりがあっても物価はやがて落ち着きます。錨が外れて予想が漂流し始めると、それを引き戻すには不況という高い代償が要ります。
なぜ生まれたか
1960年代までの経済学は、フィリップス曲線 — インフレ率と失業率の安定した逆相関 — を政策のメニューとして扱っていました。多少のインフレを受け入れれば失業を減らせる、という便利なトレードオフです。これに対してエドマンド・フェルプス(1967年)とミルトン・フリードマン(1968年)は、この関係は人々の予想を無視している、と批判しました。政府がインフレで失業を減らそうとしても、人々がやがてそのインフレを予想に織り込めば、賃金も価格も先回りして上がり、失業率は元に戻ってインフレだけが残る、という予言です。
1970年代、高インフレと高失業が同時に進むスタグフレーションが現実になり、予言は的中しました。予想が一度上振れて定着すると、金融政策で引き締めても人々は「どうせまた物価は上がる」と信じ続け、インフレを鎮めるには深い不況が要りました。1979年に就任したボルカー議長のもと、米国の中央銀行であるFRBは政策金利を1981年に約20%まで引き上げ、失業率は10%を超えました。
同じころ、予想の作られ方そのものも理論化されます。ジョン・ミュースは1961年、人々は手に入る情報を使って、平均すればモデルと同じ予想を立てる(合理的期待)と提案し、ロバート・ルーカスやトーマス・サージェントがこれをマクロ経済学に持ち込みました。サージェントは1982年の論文「四つの大インフレの終わり」で、第一次世界大戦後のオーストリア、ハンガリー、ポーランド、ドイツのハイパーインフレが、財政と中央銀行の制度を作り直した途端に、深い不況なしに止まったことを示しました。人々が「政策の仕組みが本当に変わった」と信じれば、予想は一気に書き換わりうる、という発見です。こうした経験から「予想を安定させておくことこそ物価安定の本丸だ」という考えが広がり、1990年にニュージーランドが最初にインフレ目標を採用、日本銀行も2013年1月に「物価上昇率2%」の目標を導入しました。
詳細
予想が物価を動かす3つの経路
インフレ期待が現実の物価に写し取られる主な経路は3つあります。第一に賃金交渉です。労働者と企業は「来年の物価」を前提に賃金を決めるため、予想インフレ率はそのまま賃上げ率の土台になります。第二に値付けです。原材料や人件費の上昇を見込む企業は、コスト増が実現する前に値上げを織り込みます。第三に消費と投資のタイミングです。物価が上がると思えば「今のうちに買う」が得になり、需要の前倒しがさらに物価を押し上げます。逆にデフレーションの予想が定着すると「待てば安くなる」ので皆が買い控え、物価の下落が自己実現します。1990年代末から長く続いた日本のデフレは、まさにこの逆回転でした。
錨が効いている予想と、漂流する予想
人々はどうやって将来のインフレを予想するのでしょうか。経済学は大きく2つの型を考えてきました。「適応的期待」は、過去の実績から予想を作る考え方です。昨年3%なら来年も3%くらいだろう、という素朴な外挿で、インフレが一度定着するとなかなか収まらない粘り強さをうまく説明します。「合理的期待」は、人々は手に入る情報をすべて使い、政策の帰結まで読んで予想する、という考え方です。この立場では、中央銀行が本気で目標を守ると皆が信じた瞬間に予想は目標へ戻るため、政策の信認こそが決定的になります。
現実の予想はこの中間にあります。一部の人は中央銀行の目標を信じて予想を2%近くに置き、別の人は最近の値上がりを追いかけます。前者の割合が大きいほど、一時的なショックで実際の物価が跳ねても、予想の分布はほとんど動きません。後者が多いと、ショックのたびに分布ごと上へずれていきます。
下の部品で確かめてください。粒の一つひとつが家計と企業の予想です。塗りつぶした粒は2%の錨を信じ、白抜きの粒は去年のインフレを追います。原油ショックを与えて年を進め、信認の高い経済と低い経済で、粒の雲の動きを比べてみてください。
人々が2%目標を信じている経済です。原油ショックを押してから1年すすめるを何回か押し、塗りつぶした粒(錨を信じる)と白抜きの粒(去年を追う)の動きを見比べてください。
粒=家計(緑青)と企業(金)の来年の物価の予想。塗りつぶし=2%目標を信じる粒(紫の鎖で錨につながる)、白抜き=去年のインフレを追う粒。金の線=実際のインフレ、青の線=予想の平均、紫の点=今年のインフレ(上下にドラッグ)
予想をどう測るか
心の中の予想は直接見えないため、いくつかの窓から観測します。1つ目はアンケートです。日本銀行は、企業に先行きの物価の見通しを尋ねる「企業の物価見通し」を2014年から短観(全国企業短期経済観測調査)の一部として集計し、家計には「生活意識に関するアンケート調査」で1年後・5年後の物価の予想を尋ねています。2つ目は市場の価格から逆算する方法です。ふつうの国債と、元本が物価に連動する物価連動国債の利回りの差(ブレークイーブン・インフレ率)から、市場が織り込む将来のインフレ率を読み取ります。
測り方によって値は大きく食い違います。家計の予想は、実際のインフレ率よりかなり高めに出る傾向があります。人は食料品やガソリンのように頻繁に買う品の値上がりを強く覚えていて、それを物価全体の印象にしがちだからです(統計の消費者物価指数と、体感の物価がずれる理由のひとつです)。中央銀行は、こうした指標を並べて、予想が目標から漂流し始めていないかを診断します。どの指標をどれだけ信じるか自体が、政策判断の一部です。
日本の現在地 — デフレの予想から、インフレの予想へ
日本では長いデフレのあいだ、人々の予想が「物価は上がらない」に錨を下ろしていました。2013年に2%目標を掲げて大規模な緩和を続けても、予想はなかなか動きませんでした。流れが変わったのは2022年です。資源高と円安で輸入物価が跳ね上がり、生鮮食品を除く消費者物価の上昇率は2023年1月に前年比4.2%と、約41年ぶりの高さに達しました。値上げが日常になると、企業の値付けの慣行も、家計の予想も上向きます。企業の物価見通しは2%を超える水準で推移し、賃上げも大きくなりました。
日本銀行はこの変化を見て、2024年3月にマイナス金利とイールドカーブ・コントロールを終え、その後も段階的に利上げして、2026年9月には政策金利を1.25%程度としました。その決定の説明でも、中長期の予想物価上昇率が引き続き上がっていることが挙げられています。長くゼロに張り付いていた錨を2%へ引き上げる局面から、今度は2%を超えて漂流しないよう留める局面へ — 日本の金融政策の焦点は、予想そのものに移っています。
実務での含意 — 中央銀行は「言葉」で戦う
インフレ期待という考え方は、金融政策の道具箱を変えました。金利が動かしにくい局面でも、将来の政策の約束(フォワードガイダンス)で予想に働きかけられるからです。「目標を達成するまで緩和を続ける」という宣言は、それが信じられる限り、金利を1ミリも動かさずに企業の値付けや賃金交渉を変えます。逆に言えば、中央銀行が約束を反故にして信認を失うと、言葉の効き目は消え、次にインフレを抑えるには実弾(大幅な利上げと不況)が必要になります。
落とし穴は、予想の安定を当然と思うことです。物価が長く安定した社会では、人々はそもそも物価を気にせずに暮らします。細かく調べる手間に見合わないので注意を払わないという、限定合理性の一つの形(合理的無関心)です。この状態は中央銀行にとって理想ですが、大きな値上がりで物価が人々の意識に上ると、賃金と値札が互いを参照し始め、予想は急に不安定になりえます。2021年以降の世界的なインフレで各国の中央銀行が急速な利上げを急いだのは、目の前の物価より「予想の錨が外れる前に鎮める」ことを重視したためです。インフレ期待は、平時には見えないのに、外れたときに最も高くつく — マクロ経済の縁の下の留め金です。
試問
何年もインフレが続き、人々の予想が5%前後に漂流した経済です。中央銀行を信じる人はほとんどいません。
何年もインフレが続き、人々の予想は5%前後に漂流しています。右端の紫の点(今年のインフレ)をつかんで予想より低く置き、1年すすめる。予想を下回らせた分だけ失業が要ります。
粒=家計(緑青)と企業(金)の来年の物価の予想。塗りつぶし=2%目標を信じる粒(紫の鎖で錨につながる)、白抜き=去年のインフレを追う粒。金の線=実際のインフレ、青の線=予想の平均、紫の点=今年のインフレ(上下にドラッグ)
