フィリップス曲線
Phillips Curve ・ ふぃりっぷすきょくせん
インフレ率と失業率の逆相関を示す曲線。短期には成り立ち、期待が追いつく長期には垂直になる
✦ 30秒で試す — 航海インフレを我慢して失業を減らしたのに、失業は元に戻った失業率を戻したあと、高いインフレは?予想してみる概要
フィリップス曲線は、インフレーション率と失業率のあいだに見られる逆相関 — 失業率が低いときほどインフレ率が高く、失業率が高いときほどインフレ率が低い — を描いた曲線です。横軸に失業率、縦軸にインフレ率(最初の研究では賃金の上昇率)を取ると、右下がりの曲線が現れます。景気が過熱して人手が足りなくなれば、企業は人を集めるために賃金を上げ、その分を値札に乗せます。不況で職を探す人があふれれば、賃金も物価も上がりにくくなります。この直感を1枚のグラフにしたものです。
この曲線が60年以上も経済学の中心にあるのは、それが「政策のメニュー」に見えたからです。曲線が安定していれば、政府や中央銀行は「インフレを少し我慢して失業を減らす」ことを選べます。本当にそうなのか、そうだとしたらどれくらいの期間なのか — この問いをめぐる論争が、人々の予想(期待)をマクロ経済学の中心に据え、現代の金融政策の設計を作り替えました。答えを先に言えば、トレードオフは人々の予想が追いつくまでの短い期間にしかなく、長い目で見ると曲線は垂直に立ちます。
なぜ生まれたか
1958年、ニュージーランド出身でロンドンにいた経済学者A. W. フィリップスは、イギリスの約100年分(1861〜1957年)のデータを整理し、失業率と名目賃金の上昇率のあいだに安定した右下がりの関係があることを示しました。2年後の1960年、ポール・サミュエルソンとロバート・ソローが米国のデータで賃金の上昇率を物価の上昇率(インフレ率)に読み替え、「失業率を何%にするには、何%のインフレを受け入れればよいか」という形で示しました。これが「フィリップス曲線」として急速に広まります。
当時のケインズ経済学は、需要を増やして失業率を下げる処方箋には強い一方、需要を刺激し続けたら物価はどうなるのかという問いに、数字で答える道具を欠いていました。フィリップス曲線は、その欠けていたピース — 需要刺激の「代金」としてのインフレ — を埋めるように見えたのです。1960年代の米国では、この曲線を文字どおりのメニューとして、財政政策と金融政策で失業を減らす運営が続きました。しかしこの使い方こそが、後に曲線そのものを壊すことになります。安定して見えた関係は、人々がインフレを予想していなかった時代の産物だったからです。
詳細
期待で拡張したフィリップス曲線 — 予想を上回った分だけ失業が減る
1967年のエドマンド・フェルプスと、1968年のミルトン・フリードマン(米国経済学会の会長講演)は、曲線に決定的な修正を加えました。鍵はインフレ期待です。労働者が賃上げに満足して働きに出るのは、物価が予想以上に上がったとは気づいていないあいだだけです。インフレが続いて誰もがそれを予想に織り込めば、賃金交渉も値付けも最初からその分を上乗せして行われ、驚きは消えます。
この考え方は、次の1本の式にまとめられます。
π = πᵉ − β(u − u*)+ 供給ショック
π はインフレ率、πᵉ は人々が予想するインフレ率、u は失業率、u* は自然失業率(景気と関係なく残る、転職のあいだの失業や、職と人の食い違いによる失業の水準。詳しくは失業の記事)、β は曲線の傾きです。失業率が自然失業率より低いとき(u < u*)だけ、インフレは予想を上回ります。たとえば予想が2%、β = 0.8、自然失業率4.5%のとき、失業率を3%に下げるとインフレ率は 2 + 0.8×1.5 = 3.2% になります。ところが翌年、人々が3.2%を予想に織り込むと、同じ3%の失業率でもインフレは4.4%に上がります。失業率を低く保ち続けるには、インフレを毎年加速させ続けなければなりません。
こうしてフィリップス曲線は1本ではなくなります。期待インフレ率の高さごとに1本ずつ右下がりの短期曲線があり、期待が上がるたびに曲線ごと上へずれます。そして長い目で見た曲線は、自然失業率の位置に立つ垂直な1本の線になります。長期的には、金融政策でインフレ率は選べても、失業率は選べない — これが「メニュー」という解釈への理論的な反論でした。
下の部品で確かめてください。金の点(いまの経済)をつかんで左へ動かし、失業率を下げたまま1年ずつ進めると、短期曲線がどう動くかが見えます。「期待の作られ方」を切り替えると、人々が2%目標を信じ続ける経済では曲線が動かないことも確かめられます。
金の点(いまの経済)をつかんで左へ動かし、失業率を下げてみてください。そのまま1期すすめるを何回か押すと、曲線はどうなるでしょう。
金の線=いまの短期フィリップス曲線(期待インフレ率ごとに1本)、淡い線=過去の短期曲線、青の縦線=長期曲線(自然失業率)、金の点=いまの経済(左右にドラッグ)、白い点の列=確定した年の軌跡
スタグフレーション — 予言の的中
フリードマンらの警告は、驚くほど早く現実になりました。1970年代、二度の石油危機を背景に、米欧では高インフレと高失業が同時に進みます。右下がりの1本の曲線の上では「ありえない」はずのこの組み合わせ — スタグフレーション — は、式の中の2つの項で説明できます。原油高という供給ショックが曲線を押し上げ、それまでの緩和で上がっていたインフレ期待がさらに曲線を押し上げたのです。1960年代のデータで安定して見えた曲線は、政策がそれを利用しようとした途端に形を変えました。ロバート・ルーカスは1976年、人々の予想は政策に応じて変わるので、過去のデータから推計した関係を政策の道具として使うと崩れると論じました(ルーカス批判)。フィリップス曲線はその最も有名な実例です。
逆向きの動きも、同じ式で読めます。1980年前後の米国では、ボルカー議長の中央銀行が強い引き締めで失業率を10%近くまで押し上げ、インフレ率を予想より低く抑え続けました。その結果、期待が下がって短期曲線が下へずれ、数年がかりでインフレが鎮まりました。上がった期待を下げるには、自然失業率より右側で過ごす年月 — 失業という代償 — が要るのです。
平らな曲線と、急な曲線 — 日本と2021年以降
期待が目標の近くにしっかり錨を下ろしていると、短期曲線はずれにくくなり、景気が変わってもインフレはあまり動かなくなります。2000年代から2010年代の先進国では、失業率が歴史的な低さまで下がってもインフレがほとんど加速しない「フラット化」が観察されました。日本の曲線はとりわけ平らで、失業率が2%台まで下がった2010年代後半にも、物価上昇率は目標の2%に届きませんでした。デフレの経験が長く、人々の予想が「物価は上がらない」に錨を下ろしていたことが一因と考えられています。
ところが2021〜22年、コロナ禍のあとの需要の急回復と供給の制約が重なると、人手不足と高インフレが再び強く連動しました。米国では失業率が3%台半ばのまま、消費者物価の上昇率が2022年6月に前年比9.1%に達しています。曲線は死んだのではなく平らな区間にいただけで、労働市場が十分に逼迫すると急になる — 曲線は直線ではなく、失業率の低い側で折れ曲がっている、という見方が有力になりました。日本でも2022年以降、輸入物価の上昇をきっかけに物価と賃金が上がり始め、長く平らだった曲線がどこまで動くのかが、日銀の利上げの判断を左右しています。傾きを読み違えれば、引き締めが遅すぎたり、景気を冷やしすぎたりします。フィリップス曲線の推定は、いまも金融政策の実務の最前線です。
試問
インフレ率2%、失業率は自然失業率の4.5%で、人々は去年のインフレを今年の予想にする経済です。
いまはインフレ率2%、失業率は自然失業率の4.5%です。金の点をつかんで短期曲線の上を動かし、1期すすめるで1年ずつ進めてください。
金の線=いまの短期フィリップス曲線(期待インフレ率ごとに1本)、淡い線=過去の短期曲線、青の縦線=長期曲線(自然失業率)、金の点=いまの経済(左右にドラッグ)、白い点の列=確定した年の軌跡
