マクロ経済●●●○○

フィリップス曲線

Phillips Curveふぃりっぷすきょくせん

インフレ率と失業率の逆相関を示した曲線。金融政策論争の主戦場

概要

フィリップス曲線は、インフレーション率と失業率の間に観察される逆相関 — 失業率が低いときほどインフレ率が高く、失業率が高いときほどインフレ率が低い — を描いた曲線です。横軸に失業率、縦軸にインフレ率(元の研究では賃金上昇率)を取ると、右下がりの曲線が現れます。景気が過熱して人手不足になれば賃金と物価が上がり、不況で失業が増えれば物価は落ち着く、という直感を一枚のグラフにしたものと言えます。

この曲線が経済学の一大テーマであり続けるのは、それが単なる観察を超えて「政策のメニュー」に見えたからです。もし曲線が安定した関係なら、政府や中央銀行は「インフレを我慢すれば失業を減らせる」「失業を我慢すればインフレを抑えられる」という選択ができることになります。この解釈が正しいのか、正しいとすればどの時間軸でか — この問いをめぐる論争は、期待という概念をマクロ経済学の中心に据え、現代の金融政策の設計思想を根本から作り替えました。

なぜ生まれたか

1958年、ニュージーランド出身の経済学者A. W. フィリップスは、イギリスの約100年分(1861〜1957年)のデータを整理し、失業率と名目賃金の上昇率の間に安定した右下がりの関係があることを示しました。まもなく賃金上昇率はインフレ率に読み替えられ、この関係は「フィリップス曲線」として急速に広まります。当時のケインズ経済学は不況期の失業対策には強い枠組みでしたが、財政や金融で需要を刺激し続けたら物価はどうなるのか、という問いへの定量的な答えを欠いていました。フィリップス曲線は、その欠けていたピース — 需要刺激の「代金」としてのインフレ — を埋めるように見えたのです。

1960年代の政策当局はこの曲線を文字どおりのメニューとして使いました。「インフレ率を1%余分に受け入れれば、失業率を何%下げられるか」を曲線から読み取り、望ましい組み合わせを選ぶ、という発想です。しかしこの使い方こそが、後に曲線自体を壊すことになります。安定して見えた関係は、人々がインフレを予想していなかった時代の産物だったからです。

詳細

短期の右下がりと長期の垂直 — 期待が曲線を動かす

1968年前後、ミルトン・フリードマンとエドマンド・フェルプスは、フィリップス曲線の解釈に決定的な修正を加えました。鍵はインフレ期待です。労働者や企業が驚くのは「予想していなかったインフレ」だけであり、インフレが定着して誰もがそれを織り込むようになれば、賃金交渉も価格設定も最初からインフレ分を上乗せして行われます。つまり、金融緩和で失業率を下げられるのは、インフレが人々の予想を上回っている短期の間だけ。予想が現実に追いつけば、失業率は自然失業率(景気と無関係に存在する摩擦的・構造的失業の水準)に戻り、あとには高いインフレだけが残る、という主張です。

この見方では、フィリップス曲線は1本ではありません。インフレ期待の水準ごとに1本ずつ短期曲線があり、期待が上がるたびに曲線全体が上へシフトします。そして長期のフィリップス曲線は、自然失業率の位置で垂直に立つ1本の線になります。長期的には、金融政策でインフレ率は選べても失業率は選べない — これが「メニュー」解釈への理論的な死刑宣告でした。

インフレ率失業率短期曲線(低い期待)短期曲線(高い期待)期待が上がると曲線ごと上へシフト長期曲線(垂直)自然失業率短期には右下がりのトレードオフがあるが、長期には失業率は自然失業率に戻り、インフレ率だけが選ばれる
短期フィリップス曲線と長期フィリップス曲線 — インフレ期待の上昇が短期曲線を上へ押し上げ、長期では自然失業率の位置で垂直になる

スタグフレーション — 予言の的中

フリードマンらの警告は、驚くほど早く現実になりました。1970年代、二度の石油危機を背景に、米欧では高インフレと高失業が同時に進行します。右下がりの曲線の上では「あり得ない」はずのこの組み合わせ — スタグフレーション — は、インフレ期待の上昇で短期曲線そのものが上方にシフトしたと考えれば整合的に説明できました。1960年代のデータで安定して見えた曲線は、政策がそれを利用しようとした途端に形を変えたのです。「観察された関係は、それを政策の道具に使うと崩れる」というこの教訓は、経済のあらゆる定量的な関係に当てはまる一般則(グッドハートの法則やルーカス批判として知られます)の、最も有名な実例になりました。

現代の運用 — 期待の管理が政策の中心へ

この論争の帰結として、現代の中央銀行の仕事は「インフレ期待の管理」を中心に再設計されました。長期では失業率を選べない以上、金融政策にできる最善は、インフレ期待を低位に安定させて短期曲線を低い位置に固定すること — インフレ目標の公表や将来の政策方針の説明(フォワードガイダンス)に各国が力を注ぐのはこのためです。期待が2%に錨のように固定されていれば、一時的な景気変動や原油高が起きても、賃金と物価の連鎖的な上昇には発展しにくくなります。逆に1980年代初頭の米国のように、いったん上がった期待を引き下げるには、意図的に厳しい金融引き締めと深い不況という高い代償が必要でした。

消えたのか、眠っているのか — フラット化をめぐる現代の論争

2000年代以降、先進国ではフィリップス曲線の傾きが緩やかになる「フラット化」が観察されています。失業率が歴史的な低水準まで下がってもインフレがほとんど加速しない時期が続き、「フィリップス曲線は死んだ」という議論さえ現れました。グローバル化による賃金抑制、期待の安定化そのものが物価を動きにくくした効果など、複数の説明が提案されています。しかし2021〜22年、コロナ禍後の急激な需要回復と供給制約のもとで、人手不足と高インフレが再び強く連動し、曲線は「死んだのではなく平らな区間で眠っていただけ」で、労働市場が十分に逼迫すると急勾配になる(曲線は直線ではなく屈曲している)という見方が有力になりました。60年以上たった今も、この曲線の傾きと形状の推定は、利上げ・利下げのタイミングを左右する金融政策の実務の最前線であり続けています。