ミクロ経済●●●○○

ナッシュ均衡

Nash Equilibrium ・ なっしゅきんこう

誰も自分一人だけ戦略を変えても得をしない状態。駆け引きがどこに落ち着くかを予測する基準点

✦ 30秒で試す — 航海じゃんけんには、出した後に後悔しない手がない互いに読まれても損しない混ぜ方で、グーを出す割合は?予想してみる

概要

ナッシュ均衡は、ゲーム理論で「駆け引きの落ち着き先」を表す中心の概念です。定義は短く、「全員の戦略の組み合わせのうち、誰も自分一人だけ戦略を変えても得をしない状態」を指します。全員が相手の戦略を前提に、それぞれ自分にとって最善の応答(最適反応)を選び合っています。だから誰にも一方的に動く理由がなく、その状態は保たれます。逆に、誰か一人でも「自分だけ変えれば得だ」と気づける状態は、いずれ崩れるので落ち着き先になりません。

身近な例が「車が道路のどちら側を走るか」です。全員が左側を走っているとき、自分一人だけ右側に移るのは自殺行為なので、誰も逸脱しません。左側通行はナッシュ均衡で、右側通行もまた別のナッシュ均衡です。待ち合わせの定番の場所、業界の商慣行、標準規格 — 「皆がそうしているから、自分もそうするのが最善」という状態は、どれもナッシュ均衡として理解できます。ゲームの構造さえ書き出せば、その状況がどこに落ち着くかを事前に予測できる。この汎用性が、ナッシュ均衡を経済学全体の基礎概念にしました。

なぜ生まれたか

ゲーム理論の出発点となったフォン・ノイマンの理論には、大きな制約がありました。厳密に解けるのは主に「2人ゼロサムゲーム」、つまり一方の得が他方の損にそのままなる勝負事に限られていたのです。しかし経済の現実は、比較優位に沿った貿易のように双方が得をすることも、寡占企業の値下げ合戦のように双方が損をすることもある「非ゼロサム」の世界です。プレイヤーが3人以上いて、利害が完全な対立でも完全な一致でもない一般の状況で、「解」とは何を意味するのか。この問いに答えがないままでは、ゲーム理論は経済分析の道具になれませんでした。

1950年、当時21歳のプリンストン大学の大学院生ジョン・ナッシュは、わずか1ページ余りの論文でこの壁を越えます。「全員が互いに最適反応を取り合っている状態」という均衡を定義し、プレイヤーと戦略が有限などんなゲームにも、この均衡が少なくとも1つ存在することを証明しました。ただし条件があります。手を確率的に混ぜる「混合戦略」まで含めれば、という条件です。どんな駆け引きにも落ち着き先の候補が保証される — この存在定理によって、寡占・交渉・オークションの入札といった経済状況を、同じ枠組みで分析できるようになりました。ナッシュはこの業績で1994年のノーベル経済学賞をハルサニー、ゼルテンと共に受け、その半生は映画『ビューティフル・マインド』(2001年)にも描かれています。

詳細

均衡の見つけ方 — 逸脱の矢印の行き止まり

ナッシュ均衡を探す手順は、「いまの状態から、誰か一人だけが手を変えて得をできるか」を全員分チェックすることです。2人のゲームなら、利得行列の各マスから「行プレイヤーが自分だけ行を変えると得になる向き」と「列プレイヤーが自分だけ列を変えると得になる向き」に矢印を引いていきます。矢印が1本も出ていないマス — 矢印の行き止まり — がナッシュ均衡です。

囚人のジレンマでは、相手が協力でも裏切りでも、自分は裏切りに移ると得をします。矢印はすべて「両者裏切り」のマスに流れ込み、そこだけが行き止まりになります。この「一方的な逸脱で検査する」という発想が定義のすべてで、どんなに複雑なゲームでも変わりません。

下の部品で確かめてください。利得の数字をつかんで上下に書き換えると、矢印の向きが変わり、行き止まり(金に光るマス)が0個・1個・2個と入れ替わります。「ゲーム」の切り替えで、代表的なゲームの矢印の形も見比べられます。

⚡ 体験: 逸脱の矢印をたどって均衡を探す
列プレイヤー行プレイヤー規格A規格B規格A規格B33000022最適反応の図(交点=均衡)101pqp=行が上の手を選ぶ確率、q=列が左の手を選ぶ確率実線=行の最適反応、破線=列の最適反応
純粋戦略の均衡2個逃げ出す矢印のあるマス2/4混合戦略の均衡p=0.40 q=0.40
ゲーム

金に光るマスは、どちらにも逃げ出す矢印がない行き止まり = ナッシュ均衡です(いま 2つ)。数字をつかんで上下に動かし、矢印の向きと行き止まりの数がどう変わるか見てください。

各マスの左下=行プレイヤー(緑青)、右上=列プレイヤー(金)の利得。数字は上下にドラッグ(またはフォーカスして↑↓)で書き換えられる。矢印=自分だけ手を変えると得になる向き

均衡は1つとは限らない — 調整ゲーム

ナッシュ均衡は複数ありえます。典型が「調整ゲーム」、つまり皆と同じ選択をすること自体に価値がある状況です。下の図は2社が共通規格を選ぶゲームで、「両社とも規格A」と「両社とも規格B」のどちらもナッシュ均衡になります。

Y社規格Aを採用規格Bを採用X社規格Aを採用規格Bを採用X:利益 3 Y:利益 3ナッシュ均衡互換性の利益を共有X:利益 0 Y:利益 0規格が分裂して互換性が失われるX:利益 0 Y:利益 0規格が分裂して互換性が失われるX:利益 2 Y:利益 2こちらもナッシュ均衡劣った規格でも揃えば安定どちらの均衡でも、自社だけ規格を変えると利益 0 に落ちるため誰も動かない
調整ゲームの利得行列 — 対角線上の2マスがどちらもナッシュ均衡。どちらに落ち着くかは理論だけでは決まらない

注目すべきは、規格Bで揃う均衡は規格Aで揃う均衡より両社にとって劣るのに、いったんそこに落ち着くと抜け出せないことです。自社だけ規格Aに移っても互換性を失って損をするため、「全員で一斉に移る」調整ができない限り、劣った均衡が続きます。利用者が増えるほど価値が増すネットワーク効果の市場では、この構造が特に強く働きます。よく引かれる例がキーボードのQWERTY配列ですが、「実はもっと効率的なDvorak配列が負けた」という通説には、Dvorak配列が優れていたという実験の信頼性を疑う反論(リーボウィッツとマーゴリス、1990年)もあり、論争の続いている例として扱うのが公平です。

複数の均衡のどれが実現するかは、理論の外にある慣習・歴史・「皆がそう予想するから」という共通認識に左右されます。シェリングはこの目印をフォーカルポイントと呼びました。左側通行が選ばれたのは、左が優れているからではなく、歴史がそこを目印にしたからです。

純粋な均衡がないとき — 混合戦略

逆に、矢印がぐるりと一周して行き止まりのないゲームもあります。サッカーのPK戦がその例です。キッカーが左に蹴るとGKが読んでいれば、GKは左に跳ぶのが得。GKが左に跳ぶなら、キッカーは右に蹴るのが得。すると GK は右に跳ぶのが得……と、どの組み合わせにも誰かが逃げ出す理由があります。純粋な手の組み合わせには均衡がありません。

ここで効くのが混合戦略です。キッカーが「左右を半々で蹴る」なら、GKはどちらに跳んでも同じ確率でしか止められず、跳ぶ向きを変える理由がなくなります。GKが半々で跳ぶなら、キッカーも同じです。互いに相手を無差別にする確率で手を混ぜた組が、ナッシュ均衡になります。数字で確かめます。キッカーの利得を、読まれたら −1、外したら +1 とします。GKが左に跳ぶ確率を q とすると、キッカーが左に蹴ったときの期待利得は −q + (1 − q) = 1 − 2q、右に蹴ったときは q − (1 − q) = 2q − 1 です。2つが等しくなるのは q = 1/2 のときで、このときだけキッカーはどちらに蹴っても損得が同じになります。実際のプロのPKのデータを調べた研究でも、キッカーとGKの左右の選び方は混合戦略の均衡の予測に近いことが報告されています。上の部品の「PK戦」を選ぶと、右の最適反応の図で2本の線が正方形の内側で交わる点として、この均衡が見えます。

均衡は最適を意味しない

最も大事な注意点は、「均衡 = 望ましい状態」ではないことです。囚人のジレンマの均衡は全員にとって損な結果ですし、調整ゲームでは劣った均衡に固定されえます。ナッシュ均衡は「安定して続く状態」の予測であって、「良い状態」の保証ではありません。ここは市場均衡との対比が示唆的です。完全競争の市場均衡は、一定の条件のもとで社会的に効率的になることが知られていますが、それは見えざる手がうまく働く特別な構造のおかげです。一般のゲームでは、個々の合理性の行き着く先と社会全体の利益は平気で食い違います。「この慣行が続いているのは、最善だからではなく、誰も一人では抜け出せないからではないか」— ナッシュ均衡はこの問いを立てるための概念です。

実務での使いどころと、精緻化

実務では、ナッシュ均衡は「ルールを変えたら人々の行動がどこに落ち着き直すか」を読む道具になります。寡占市場で各社の生産量や価格がどこに収まるかを予測するクールノー競争・ベルトラン競争のモデルはナッシュ均衡の応用です。オークションの設計では、ルールごとの均衡の入札戦略を計算して方式の良し悪しを比べます。税制や規制の変更、プラットフォームの手数料変更への反応も、均衡の移動として分析されます。

限界もあります。均衡が複数あるとき、どれが選ばれるかは理論だけでは決まりません。また、ナッシュ均衡の中には不自然なものが紛れ込みます。順番に手を打つゲームでは、「参入したら値下げ戦争で迎え撃つ」のような、実際にはその場で実行すると損な脅しに支えられた均衡があり、これを除くためにゼルテンの部分ゲーム完全均衡のような「精緻化」の概念が作られました。さらに、人々が実際に均衡へたどり着くには読み合いや学習の過程が必要で、複雑なゲームでは現実の人間が均衡どおりに動かないことも実験で繰り返し確かめられています(この観察は行動経済学の出発点の1つになりました)。ナッシュ均衡は精密な予言ではなく、「構造が引き寄せる先」を見極めるための基準点として使うのが実務的な作法です。

試問

2社が規格を選ぶ調整ゲームです。いまは「両社とも規格A」と「両社とも規格B」の2つが均衡になっています。灰色の1マスは固定で、明るい3マスの数字だけを書き換えられます。

✦ 命題挑戦中

明るい3マスの利得だけを書き換えて、純粋戦略のナッシュ均衡がひとつも無いゲームを作れ

  • どのマスからも逃げ出す矢印が出ている(2/4)
  • 純粋戦略のナッシュ均衡(金に光るマス)が0個
⚡ 体験: 均衡のないゲームを作る
列プレイヤー行プレイヤー規格A規格B規格A規格B33000022最適反応の図(交点=均衡)101pqp=行が上の手を選ぶ確率、q=列が左の手を選ぶ確率実線=行の最適反応、破線=列の最適反応
純粋戦略の均衡2個逃げ出す矢印のあるマス2/4混合戦略の均衡p=0.40 q=0.40

いまは金に光るマス(行き止まり)が 2つ。書き換えられるのは明るい数字の3マスだけです。行き止まりを1つずつ壊すには、どの矢印の向きを変えればよいでしょう。

各マスの左下=行プレイヤー(緑青)、右上=列プレイヤー(金)の利得。数字は上下にドラッグ(またはフォーカスして↑↓)で書き換えられる。矢印=自分だけ手を変えると得になる向き