ミクロ経済●●●○○

囚人のジレンマ

Prisoner's Dilemmaしゅうじんのじれんま

各自が合理的に動くと全員が損をする構造。協力の難しさを示す最重要モデル

概要

囚人のジレンマは、ゲーム理論で最も有名なモデルです。共犯の疑いで捕まった2人の囚人が、別々の部屋で取調べを受けます。2人とも黙秘すれば証拠不十分で軽い刑(懲役1年)。しかし検事は取引を持ちかけます — 「相手を裏切って自白すれば、お前は釈放。ただし相手だけが自白したら、お前は懲役10年だ」。2人とも自白すれば、そろって懲役5年です。互いに相談できない2人は、どうするでしょうか。

各自にとっての損得を冷静に計算すると、恐ろしい結論が出ます。相手が黙秘するなら、自分は自白した方が得(1年→釈放)。相手が自白するなら、やはり自分も自白した方が得(10年→5年)。つまり相手がどう出ようと自白が得なので、合理的な2人はそろって自白し、そろって懲役5年になります。2人とも黙秘していれば1年で済んだのに、です。「一人ひとりが自分にとって最善の選択をした結果、全員が損をする」— この構造は取調室に限らず、価格競争、環境破壊、軍拡競争など、社会のいたるところに潜んでいます。個人の合理性と全体の利益が食い違う瞬間を、これ以上ないほど鋭く切り出した思考実験です。

なぜ生まれたか

アダム・スミス以来の経済学には、各自が自己利益を追求すれば見えざる手に導かれて社会全体もうまくいく、という強力な直観がありました。しかし現実には、皆が自分の利益だけを考えた結果、全員が望まない状態に落ち込む現象 — 抜け出せない値下げ合戦、枯渇する漁場、止まらない軍拡 — が繰り返し観察されます。この「自己利益の追求が裏目に出る」現象を、偶然や愚かさではなく論理必然として説明する道具が必要でした。

囚人のジレンマは1950年、米国のシンクタンクRAND研究所のメリル・フラッドとメルビン・ドレシャーが実験として考案し、数学者アルバート・タッカーが囚人の逸話に仕立てて広めました。折しも米ソ冷戦の初期で、「両国とも軍縮すれば楽になるのに、相手の裏切りを恐れて両国とも軍拡を続ける」という現実の構造とぴったり重なったことが、このモデルの重要性を際立たせます。わずか2人・2択の最小のゲームで「合理性が協力を破壊する」メカニズムを示したことで、市場がうまく働かない場面 — 市場の失敗 — を分析するための、経済学で最も引用されるモデルの一つになりました。

詳細

利得行列で構造を読む

囚人のジレンマの構造は、2人の選択の組み合わせごとの損得を並べた「利得行列」で一望できます。ポイントは、各プレイヤーにとって「裏切り(自白)」が支配戦略 — 相手の選択がどちらであっても自分の利得が高くなる戦略 — になっていることです。

囚人B黙秘=協力自白=裏切り囚人A黙秘=協力自白=裏切りA:懲役1年B:懲役1年全体では最善なのに選ばれないA:懲役10年B:釈放裏切られると最悪A:釈放B:懲役10年裏切った側だけ得をするA:懲役5年B:懲役5年合理的な読み合いの行き着く先赤い矢印=各自にとって得な方向への一方的な逸脱。すべての矢印が右下に集まる
囚人のジレンマの利得行列 — 相手がどう出ても裏切りが得なため、両者は右下に引き寄せられる

図の矢印が示すとおり、どのマスから出発しても、各自が自分だけ得になる方向へ動くと右下(両者裏切り)に吸い寄せられます。両者裏切りは、誰も一人だけ戦略を変えても得をしない状態、つまりこのゲームの唯一のナッシュ均衡です。一方、左上(両者協力)の方が2人にとって明らかに望ましいのに、そこに留まる力が働きません。均衡と全体最適が食い違う — これがジレンマの正体です。

社会のいたるところにある同じ構造

登場人物を入れ替えると、このモデルは驚くほど多くの現実を説明します。寡占市場の2社にとって「黙秘」は高価格の維持、「自白」は値下げです。両社が価格を維持すれば利益を分け合えますが、相手だけが値下げすればシェアを根こそぎ奪われるため、互いに値下げに走り、両社とも利益を失います(消費者にとっては朗報である点が、囚人の話と違うところです)。国家間では軍縮と軍拡、広告合戦、税率引き下げ競争。共有の漁場や牧草地では「控えめに獲る」と「獲れるだけ獲る」の選択となり、プレイヤーが多数に増えたこの型は共有地の悲劇と呼ばれます。費用を負担せずに便益だけ受け取るフリーライドが起きる公共財の供給問題も、同じ構造の親戚です。重要なのは、これらの結果が当事者の強欲や愚かさのせいではなく、インセンティブの構造そのものから生じている、という見方です。

繰り返しが協力を生む — しっぺ返し戦略

では、協力は絶望的なのでしょうか。鍵は「同じ相手と何度も対戦するかどうか」にあります。一回限りなら裏切りが支配戦略ですが、ゲームが繰り返されるなら「今回裏切れば、次回以降に報復される」という将来の影が働きます。政治学者アクセルロッドが1980年前後に行った有名なコンピュータ・トーナメントでは、世界中から集まった戦略プログラムを繰り返し囚人のジレンマで総当たり対戦させたところ、優勝したのは最も単純な部類の「しっぺ返し(Tit for Tat)」— 初回は協力し、以降は相手の前回の手をそのまま返す戦略 — でした。まず協力から入り、裏切りには即座に報復し、相手が協力に戻れば水に流す。この「気は良いが、なめられない」振る舞いが、血縁も契約もないところに協力を芽生えさせることを示した結果は、経済学を超えて生物の進化や国際政治の研究にも大きな影響を与えました。ただし繰り返しによる協力は万能ではなく、「最終回」が見えている取引や、匿名で相手を乗り換えられる状況では、将来の影が消えて裏切りが復活します。

「1回きりなら裏切りが得、繰り返しなら協力が育つ」という構造は、実際にしっぺ返しと10ラウンド対戦してみると数字で腑に落ちます。

⚡ 体験: 繰り返し囚人のジレンマで対戦する
あなた\相手
協力
裏切り
協力
あなた 1年相手 1年
あなた 10年相手 釈放
裏切り
あなた 釈放相手 10年
あなた 5年相手 5年
相手の戦略

初回は協力、以降は相手の前回の手をそのまま返す

あなたの手 — ラウンド 1 / 10
あなた··········0
相手··········0

累積は懲役年数 — 少ないほど得。10回とも協力し合えば互いに10年、裏切り合えば50年。

相手の戦略を選び、毎ラウンド「協力」か「裏切り」を選んでください。数字は懲役年数 — 少ないほど得です。

構造を変える — 制度によるジレンマの解消

もう一つの解決の方向は、ゲームの利得構造そのものを外から変えてしまうことです。マフィアの掟が「自白した者への制裁」を約束すれば、自白の利得が下がって黙秘が成立します(皮肉なことに、これは裏社会による見事な制度設計です)。社会に目を戻せば、拘束力のある契約と裁判所、カルテルを禁じる独占禁止法、乱獲を防ぐ漁獲枠、国際的な軍縮条約と査察は、いずれも「裏切りのコストを引き上げ、協力を各自の合理的な選択にする」仕掛けです。取引を繰り返しゲーム化する評判システム(ネット通販のレビューや信用情報)も同じ働きをします。囚人のジレンマを学ぶ実益はここにあります — 協力が生まれない現場で人の善意に訴える前に、利得の構造を疑い、構造の方を設計し直す、という発想が持てるようになるのです。