異名同音
Enharmonic ・ いめいどうおん
ド♯とレ♭のように名前が違うのに同じ高さになる関係。12鍵で閉じた音律が生んだ同一視
✦ 30秒で試す — 航海今のピアノでは同じ鍵。けれど昔の鍵盤では、別の2音だった中全音律で、ド♯とレ♭のどちらが高い?予想してみる概要
異名同音(エンハーモニック)とは、ド♯とレ♭のように、譜面上の名前(綴り)は違うのに実際の高さは同じになる音同士の関係です。ピアノの鍵盤で確かめると一目瞭然で、ドとレの間の黒鍵はドから見れば「半音上のド♯」、レから見れば「半音下のレ♭」であり、どちらの名前で呼んでも押す鍵は1つです。変化記号の組み合わせ次第で、1つの高さに対する綴りは3通り以上ありえます(ソ𝄪=ラ=シ𝄫など)。
一見すると「同じ音なら名前もひとつでよいのでは」と思える冗長さですが、音楽理論ではこの綴りの違いが重要な意味を持ちます。どの名前で書くかは、その音が音楽の文脈でどんな役割を担っているかの宣言だからです。さらに歴史をたどると、ド♯とレ♭は「本来は高さの違う別の音」であり、両者を同じ高さとみなすこと自体が、1オクターブを12の鍵で閉じるという調律上の決断(その完成形が平均律)の産物だった、という事実に行き当たります。異名同音は、記譜・和声・調律が交差する興味深い結節点なのです。
なぜ生まれたか
音名の体系は、ドレミファソラシの7音(幹音)に♯や♭を付けて拡張されたものです。この体系では、同じ黒鍵の高さでも「ドの変化形」と「レの変化形」という2つの出自から到達できるため、名前の重複は構造上避けられませんでした。そして歴史的には、この2つは名前だけでなく高さも違いました。ルネサンス〜バロック期に主流だった中全音律(ミーントーン)という調律では、ド♯はドの約76セント上、レ♭は約117セント上で、両者は約41セント(半音の4割)も離れた別の音だったのです。鍵盤楽器は1つの黒鍵にどちらか一方しか割り当てられず、ド♯に調律された鍵でレ♭を弾くと響きが濁る — これが遠い調へ行けない原因のひとつでした。
この制約を解消したのが、12の鍵で五度の輪をきちんと閉じる循環的な音律です。17世紀末からは、ずれ(コンマ)を五度ごとに不均等に配って全調を使えるようにしたウェル・テンペラメントが広まり、やがてオクターブを12等分してすべての半音を100セントに揃える平均律が標準になりました。純粋な響きをわずかに犠牲にする代わりに、ド♯とレ♭は1つの高さに統合され、どの調へも自由に行き来できるようになったのです。つまり異名同音の「同音」は自然法則ではなく、12鍵で閉じるという人工的な妥協が生んだ同一視です。名前の区別だけが理論の中に残り、高さの区別は調律の中で消えた — これが異名同音という語彙の正体です。
詳細
綴りは役割の宣言
平均律の上では高さが同じでも、どの綴りを選ぶかには明確な文法があります。原則は「その音が音階や和音の中で何番目の音として機能しているか」に従うことです。たとえばホ長調(ミから始まる長調)の第3音はソ♯であってラ♭ではありません。長調の第3音は主音から数えて「3つ目の音名」でなければならず、ミ→ファ→ソと数えた3番目の名前を使うからです。旋律でも、半音階的に上行する経過音はシャープ系(ド→ド♯→レ)、下行はフラット系(レ→レ♭→ド)で綴るのが読みやすいとされます。綴りを間違えても出る音は同じですが、読み手には「この音がどこへ向かうのか」という情報が失われ、初見での理解が目に見えて遅くなります。プログラミングでいえば、動作は同じでも変数名が役割を裏切っているコードのようなものです。
同じ黒鍵を2通りに綴り分けて、行き先と高さを確かめてみてください。綴りを切り替えると進む向きが変わり、音律を中全音律にすると C♯ と D♭ が物差しの上で2つに分かれ、交互に鳴らすと別の高さに聞こえます。
同じ黒鍵を C♯(ドの半音上)と綴るか D♭(レの半音下)と綴るかで、次に進む先が変わります。まず綴りを切り替えて「進行を鳴らす」を押してください。
五度圏を閉じる継ぎ目
異名同音の同一視がもたらした最大の構造的帰結は、五度圏が円として閉じることです。完全5度を12回積み重ねると、純粋な5度では出発点よりわずかに高い音(ピタゴラスコンマのずれ)に到達してしまい、螺旋は閉じません。12鍵で閉じる音律はこのずれをどこかの5度に吸収させます。平均律は12個の5度に均等に配り(ウェル・テンペラメントは不均等に配ります)、シャープ系の調(嬰ヘ長調=ファ♯基準)とフラット系の調(変ト長調=ソ♭基準)を同じ高さで「縫い合わせ」ました。五度圏の6時の位置にある嬰ヘ長調/変ト長調の併記は、まさにこの異名同音の継ぎ目を示しています。名前の世界では無限に伸びる螺旋(ド♯♯♯…)を、高さの世界で12点の円に折りたたんだのが、12鍵で閉じる音律、とりわけ平均律だと言えます。
異名同音転換 — 転調の秘密の扉
作曲技法としての見どころは、異名同音転換(エンハーモニック転換)です。響いている和音の綴りを頭の中で読み替えることで、遠く離れた調へ一瞬でワープする技法です。古典的な例が減七の和音(七の和音の一種)で、この和音は半音3つ分ずつの均等な積み重ねでできているため、4つの構成音のどれを根音と読み替えるかで4つの異なる調の導音和音として機能します。またドイツ増六和音(増6度を含む和音)は、綴りを替えるとドミナントセブンスと同じ響きになるため、「属七だと思って聴いていたら別の調の増六和音として解決された」という騙し絵のような転調が可能になります。この技法はウェル・テンペラメントの時代のバッハにもすでに見られ、シューベルトやワーグナーの時代に大きく花開きました。12鍵で閉じた鍵盤がその土台で、どの調でも響きが均質な平均律はそれをさらに自由にしました。
実務での使いどころと落とし穴
実務面では、まず読譜と記譜の場面で異名同音の判断が日常的に発生します。ポピュラー音楽のキーがB(シ)のときにコードを♭系で綴ると読み手が混乱する、といった綴りの統一の問題がその代表です。調そのものを異名同音で選び直すこともあり、♯7つの嬰ハ長調で書くより♭5つの変ニ長調で書くほうが読みやすい、といった判断は作曲や編曲で日常的に行われます。移調楽器のパート譜を書き出すときにも、移調した結果の調号が極端に多くなったら異名同音の調に読み替えるのが普通です。
一方で注意したいのは、「異名同音=完全に同じ」が成り立つのは12鍵で閉じた音律の楽器に限られることです。弦楽器や声楽のアンサンブルでは、奏者は文脈に応じてイントネーションを調整します。旋律の向かう先を強調して導音を高めに取る「表現的イントネーション」では、レへ向かうド♯がドへ向かうレ♭より高くなりがちです。これは中全音律(ド♯がレ♭より低い)とは逆向きで、むしろ五度を純正に積むピタゴラス音律の感覚に近いものです。どちらの向きであれ、ド♯とレ♭は鍵盤の外では今も別の高さで鳴りうる — 異名同音を「鍵盤上の豆知識」ではなく「調律の歴史が記譜に残した痕跡」として理解しておくと、音律の語彙群への見通しが一気に開けます。
試問
鍵盤の黒鍵は、左右どちらの白鍵の名前からも呼べます(ド♯ともレ♭とも書ける、など)。6つの場面で、その黒鍵を♯と♭のどちらの名前で書くのが決まりどおりかを考えます。
6つの場面の黒鍵を、♯で書くべきものと♭で書くべきものに仕分けよ
項目を選んでから、入れる箱を選びます
