コンマ
Comma ・ こんま
五度を12回積んでもオクターブに戻らない微小なズレ。音律設計の宿命の誤差
概要
コンマとは、純正な音程を積み重ねていったときに生じる、「きれいに閉じない微小なズレ」の総称です。代表格は2つあります。1つは純正な完全五度3:2を12回積んだ高さとオクターブ2:1を7回積んだ高さの差であるピタゴラスコンマ(約23.5セント)。もう1つは、五度の積み重ねから得られる長三度と純正な長三度5:4との差であるシントニックコンマ(81:80、約21.5セント)です。どちらも半音のおよそ4分の1——小さいものの、訓練していない耳にもはっきり聴き取れる大きさです。
コンマは誰かの計算ミスでも楽器の精度の問題でもなく、音の物理そのものに埋め込まれた原理的な誤差です。だからこそ音律の設計では避けて通れず、歴史上のあらゆる音律は「このコンマをどこに、どうやって押し付けるか」という同じ問いへの異なる回答として読み解けます。音律の系譜を1本の物語にする鍵となる概念です。
なぜ生まれたか
ピタゴラス音律の実践者たちは、五度を12回積めば音の輪が一周して出発点に戻るはずだと期待しました。ところが実際に計算すると、13音目はもとの音よりわずかに高い。古代ギリシャや古代中国の理論家は、すでにこのズレの存在に気づいていました。当初は「もっと精密にやれば消えるのではないか」と思いたくなるズレですが、実は数学的に消せないことが示せます。五度の積み重ねは3/2の累乗、オクターブの積み重ねは2の累乗であり、3の累乗と2の累乗は素因数が違うため決して一致しないからです。五度の連鎖はどこまで行っても閉じない螺旋なのです。
このズレに名前を与え、比と大きさで定量化したことには大きな意味がありました。「なんとなく合わない」が「81:80、約21.5セントの誤差」になれば、それをいくつに分割し、どの音程に負担させるかを設計できます。コンマという概念の確立によって、調律は勘の技から計算可能な設計の問題に変わりました。
詳細
ピタゴラスコンマ — 五度の螺旋の余り
まず大きさを確かめてみましょう。純正五度3:2を12回掛けると (3/2)¹² = 531441/4096 ≈ 129.75倍。一方オクターブ7回分は 2⁷ = 128倍です。比を取ると 531441/524288 ≈ 1.0136、セントに直すと約23.46セントの超過になります。これがピタゴラスコンマです。1オクターブ12音の楽器でこの余りを処理するには、12個ある五度のどこかを狭めて吸収するしかありません。すべてを純正のまま残すことは原理的にできないのです。
シントニックコンマ — 三度の濁りの正体
もう1つの主役がシントニックコンマです。ピタゴラス音律で五度を4回積んで作る長三度は81:64(約408セント)ですが、倍音列から導かれる純正な長三度は5:4=80:64(約386セント)。この2つの比の差 81:80 が約21.5セントのシントニックコンマで、「五度を大切にすると三度が濁る」というピタゴラス音律の弱点をそのまま数値化したものです。偶然にも2つのコンマの大きさはほぼ等しく(差は約2セントで、スキスマと呼ばれます)、このことが後の音律設計に幸運をもたらしました。片方を処理するとほぼもう片方も処理できるのです。
コンマの押し付け先が音律を決める
コンマは消せない以上、選べるのは配置だけです。まずピタゴラス音律は、コンマを1か所の五度に丸ごと押し込みます。その五度は約24セントも狭い、唸って使いものにならないウルフの五度になりますが、残り11個の五度は完全に純正です。ミーントーンは発想を変え、シントニックコンマを4等分して4つの五度に少しずつ負担させることで、長三度を純正にしました。ウェル・テンペラメントはコンマを不均等に分散させ、どの調も演奏可能にしつつ調ごとの響きの個性を残します。そして平均律は、ピタゴラスコンマを12等分して全五度に均等に配りました。1つあたりの負担は約2セント——ほぼ聴き取れない犠牲と引き換えに、すべての調が同質になったのです。五度圏が螺旋ではなく閉じた円として描けるのは、この処理の結果です。
実務で出会うコンマ
コンマは理論家の玩具ではなく、演奏の現場に今も現れます。有名なのが「コンマ・ポンプ」と呼ばれる現象です。無伴奏合唱や弦楽アンサンブルが和音ごとに完璧な純正律でハモり続けると、ある種のコード進行を一巡するたびに全体のピッチがシントニックコンマ分(約21.5セント)ずつ下がっていき、曲の終わりには目に見えて低くなってしまいます。美しくハモることと音の高さを保つことが原理的に両立しない場面があるわけで、実際の合唱は無意識のうちに微調整で妥協しています。また、ド♯とレ♭のような異名同音の高さの差もコンマ絡みの論点で、ピタゴラス音律ではド♯がレ♭より約23.5セント高くなります。半音より細かいこうした差を扱う感覚は微分音の世界と地続きであり、コンマは「12音で音楽は語り尽くせない」ことを示す最小単位の証拠だと言えます。
