音と音程●●●●○

ウルフの五度

Wolf Fifthうるふのごど

コンマのしわ寄せを一箇所に集めた結果生まれる、狼の唸りのように濁る五度

概要

ウルフの五度とは、鍵盤楽器の調律において、他の五度を美しく響かせた代償として一箇所だけ極端に狂ってしまう五度のことです。激しくうなりを立てて濁るその響きが狼(wolf)の遠吠えや唸り声を思わせることから、この名前で呼ばれてきました。特定の音律の名前ではなく、ある種の音律を選ぶと必然的にどこかに現れてしまう「掃き溜めの五度」を指す言葉です。

なぜそんな五度が生まれるのかというと、原因はコンマと呼ばれる音律の宿命的な誤差にあります。純粋な五度(周波数比 2:3)を12回積み重ねても、ちょうど7オクターブにはならず、わずかに行き過ぎてしまいます。1オクターブに12個しか鍵がない鍵盤楽器では、このズレをどこかで帳尻合わせしなければなりません。多くの五度を純粋に保とうとすればするほど、そのしわ寄せは残った一箇所に集中し、そこがウルフの五度になるのです。

ルネサンスからバロックにかけての鍵盤楽器では、ウルフの五度は「そこには近づかない」という前提で共存する存在でした。作曲家は狼の棲む調を避けて書き、調律師は狼をなるべく使われない場所に閉じ込めました。やがて自由な転調への欲求が高まると、この狼をどう追い払うかが音律設計の中心課題になっていきます。

なぜ生まれたか

ウルフの五度は誰かが発明したものではなく、「12個の固定された鍵で、できるだけ多くの音程を純粋に響かせたい」という要求から必然的に生じた副作用です。ピタゴラス音律のように純粋な五度だけを積み上げて12音を作ると、五度の連鎖はコンマの分だけ閉じません。歌や擦弦楽器なら奏者がその場で音の高さを微調整して逃げられますが、オルガンやチェンバロは調律した瞬間に全部の音の高さが固定されます。11個の五度を純粋にすれば、12個目の五度は自動的にコンマ全部を引き受け、約23.5セント(半音の約4分の1)も狭い、使いものにならない音程になってしまうのです。

つまりウルフの五度とは、「誤差をどこに置くか」という設計判断の結果です。当時の調律師はこの狼を、G♯と E♭ の間のような、当時の音楽でほとんど使われない場所に押し込めることで実用性を確保しました。逆に言えば、ウルフの存在こそが後の中全音律からウェル・テンペラメント、平均律へと続く音律改革の出発点になった問題そのものなのです。

詳細

五度圏が閉じない場所

五度圏は、12の音を完全五度の連鎖でつないだ円環として描かれます。しかし物理的には、純粋な五度(2:3、約702セント)を12回積むと7オクターブを約23.5セント超過するため、この円環は本当はぴったり閉じない「螺旋」です。鍵盤楽器で無理やり円環に閉じるには、どこかの五度を狭めて誤差を吸収させるしかありません。ピタゴラス音律では11個の五度を純粋なまま保つので、残る1個がコンマ全部を引き受けて約678.5セントの狭い五度になります。これがピタゴラス音律におけるウルフの五度です。

CGDAEBF♯C♯G♯E♭B♭F残り11個の五度は純粋な約702セントウルフの五度コンマ全部を引き受けて約23.5セント狭い 678.5セント狼は当時ほとんど使われなかった G♯とE♭ の間に閉じ込められた
五度圏の帳尻合わせ — 11個の五度を純粋にすると、残る1個がコンマ全部を引き受けてウルフになる

なぜ「唸る」のか

ウルフの五度の不快さの正体は、うなりです。純粋な五度では、下の音の第3倍音と上の音の第2倍音がぴったり一致するため、2音は溶け合って安定した響きになります。ところが五度が20セント以上も狂うと、本来一致するはずの倍音同士の周波数がずれ、その差の分だけ音量が周期的に揺れる激しいうなりが発生します。ヴォー、ヴォーと波打つように震えるこの音色が、狼の唸り声にたとえられたのです。協和と不協和の物理的な基盤が倍音の一致にあることを、ウルフの五度は反面教師として教えてくれます。

G♯ ≠ A♭ — 異名同音が同音でない世界

ウルフの五度が置かれた G♯–E♭ という位置には深い意味があります。現代の平均律では G♯ と A♭ は異名同音、つまり同じ鍵・同じ高さの音です。しかし純粋な五度を積んで作る音律では、五度圏を♯側に進んでたどり着く G♯ と、♭側に進んでたどり着く A♭ は、コンマの分だけ高さの違う別の音です。1つの鍵にはどちらか一方しか割り当てられないため、鍵盤に G♯ を採用すると、A♭ が必要な場面ではコンマ分ずれた G♯ で代用するしかなく、そこに生じる「五度もどき」(音名の上では正確には減六度)がウルフになるのです。この問題を鍵の分割で解決しようとした楽器もあり、G♯/A♭ や D♯/E♭ の黒鍵を前後2つに割った「分割鍵盤」のチェンバロやオルガンが実際に作られました。

中全音律では狼はさらに獰猛になる

意外なことに、三度の美しさを追求した中全音律では、ウルフの五度はピタゴラス音律よりもさらに悪化します。中全音律は12個中11個の五度をそれぞれ純粋よりわずかに狭く調律するため、五度の連鎖全体では今度は逆方向に大きく不足し、最後に残る G♯–E♭ の五度は約737.6セント、純粋な五度より35セント以上も広い音程になってしまうのです。これは半音の3分の1を超えるズレで、和音の中で鳴らせばはっきり「音を外した」ように聞こえます。三度を美しくすればするほど狼は凶暴になる — この音律設計のトレードオフが、次の世代の音律を生む圧力になりました。

狼の追放 — 音律史の転回点

ウルフの五度を飼いならす戦略は、大きく2つに分かれます。1つはウェル・テンペラメントの道で、コンマを1箇所に集めるのをやめて複数の五度に不均等に分散させ、どの調も演奏可能にしながら調ごとの響きの個性を残しました。もう1つは平均律の道で、コンマを12個の五度に完全に均等配分し、すべての五度を一律約2セント狭くすることで狼を絶滅させました。現代のピアノにウルフの五度は存在しませんが、その代償としてすべての五度と三度が少しずつ純粋さを失っています。古楽の演奏や歴史的オルガンでは今もウルフの五度に出会うことができ、それは「誤差をどこに置くか」という選択が音楽の姿を決めてきた歴史の生き証人なのです。