音と音程●●●●○

ウェル・テンペラメント

Well Temperamentうぇるてんぺらめんと

全部の調が演奏可能で、調ごとに響きの個性が残る音律。バッハ時代の妥協解

概要

ウェル・テンペラメント(不等分平均律)とは、コンマを複数の五度に「不均等に」分散させることで、24のすべての調を演奏可能にした音律の総称です。単一の音律ではなく、17世紀末から18世紀にかけて考案された一群の調律法 — ヴェルクマイスター、キルンベルガー、ヴァロッティなど — をまとめて指す言葉で、「良く調整された(well-tempered / wohltemperiert)」という形容がそのまま名前になっています。

最大の特徴は、「全調が使える」ことと「調ごとに響きが違う」ことの両立です。コンマの配分が不均等なので、五度や三度の純度は調によって微妙に異なります。よく使う調(ハ長調など)は純正に近い穏やかな響き、遠い調(嬰ヘ長調など)は張りつめた鋭い響き — どの調も破綻はしないが、それぞれ固有の「顔」を持つのです。18世紀の音楽家たちが語った「調性格論」(ハ長調は素朴、変ホ長調は荘厳、といった調ごとのキャラクター)は、この音律の物理的な違いに裏打ちされていました。

バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の原題「Das Wohltemperirte Clavier」が指すのは、現代の平均律ではなくこのウェル・テンペラメントだと考えられています。全24調で前奏曲とフーガを書けること自体が、当時この音律がもたらした新しい自由の宣言だったのです。

なぜ生まれたか

17世紀末、音楽は中全音律の限界に突き当たっていました。中全音律は主要な調の三度を純正にする代わりに、ウルフの五度と4つの使えない三度を抱え、遠隔調は事実上立ち入り禁止です。ところがバロック音楽は大胆な転調や半音階的な和声へと進化し、幻想曲やトッカータは調律の「安全地帯」からはみ出しはじめました。オルガニストで理論家のヴェルクマイスターが1691年に提案した解決策は明快でした。ウルフに全部集めていた誤差を分割し、複数の五度に振り分けてしまえば、極端に悪い場所がなくなり、どの調も演奏可能になるというものです。

もう1つの選択肢としてオクターブを完全に等分する平均律も理論上は知られていましたが、すべての調から個性を奪ううえ、うなりを数えて調律する当時の技術では正確に実現することも困難でした。ウェル・テンペラメントは「全調を解放しつつ、よく使う調ほど美しく響かせる」という、理想と実用の間の巧みな着地点だったのです。

詳細

原理 — 誤差の不均等配分

設計の核心は、ピタゴラス音律で1箇所に集中していたピタゴラス・コンマ(約23.5セント)を、どの五度に・どれだけ負担させるかの再配分にあります。代表例のヴェルクマイスター第3法では、五度圏上の C–G、G–D、D–A、B–F♯ の4つの五度をそれぞれコンマの4分の1(約5.9セント)ずつ狭め、残り8つの五度は純正のまま残します。狭められた五度はハ長調周辺に置かれているため、白鍵側の調の長三度は純正に近づき、逆に♯や♭の多い調の三度はピタゴラス的な広い三度に近づきます。「どの調も使えるが、中心の調ほど甘く、遠い調ほど鋭い」というグラデーションが、この配置から自動的に生まれるのです。

中全音律11個を少しずつ狭め、誤差の反動が1箇所のウルフに集中。遠隔調は使えないウェル・テンペラメント(例: ヴェルクマイスター第3法)4個の五度だけを 1/4 コンマずつ狭め、残り8個は純正。狼は消え、調ごとの個性は残る平均律12個すべてを均等に約2セントずつ狭める。狼も消えるが、調の個性も消える五度五度五度
コンマの配り方の比較 — 1箇所に集める中全音律、不均等に分散するウェル・テンペラメント、完全に均等な平均律

代表的な流派

ウェル・テンペラメントは単一の規格ではなく、設計者ごとの流派があります。ヴェルクマイスター第3法(1691年)は上記のとおり4つの五度にコンマを負わせる簡明な設計で、オルガン調律の定番になりました。バッハの弟子筋にあたるキルンベルガーの第3法は、C–E の長三度をほぼ純正に保つことを重視した配分で、ハ長調の美しさを最大化します。イタリアのヴァロッティ(およびイギリスのヤング)は、♭側・白鍵側の6つの五度に6分の1コンマずつを負わせる対称的な設計で、調の性格変化がなだらかなため、現在の古楽演奏で最も広く使われる汎用解になっています。どの流派も「全調が使える」「狼がいない」「調ごとの個性が残る」という3条件を満たし、違いは個性の付け方の趣味だと言えます。

調性格論 — 調に「色」があった時代

ウェル・テンペラメントの世界では、移調は単に高さを変える操作ではなく、響きの質感を変える操作でした。同じ曲でもハ長調で弾けば澄んで穏やかに、ホ長調に移せば三度が広がって輝かしくも緊張した響きになります。18世紀の理論家マッテゾンらが残した「調ごとの性格」の記述や、作曲家が調を選ぶ際のこだわりは、この物理的な差を前提にしています。バッハが『平均律クラヴィーア曲集』で全24調を巡ったのは、単なる網羅ではなく、24とおりの響きのパレットを見せる意図もあったと解釈されています。現代の平均律ではすべての調が完全に同質なため、この意味での調性格は失われました(現代における調の印象の違いは、主に楽器の音域や演奏上の慣れによるものです)。

平均律への移行と現代での再評価

19世紀に入ると、ピアノの普及、頻繁な転調と半音階和声の高度化、そして異名同音を完全に同一視する作曲技法(異名同音転調など)の広がりにより、調ごとの差はもはや個性ではなく障害と見なされるようになります。うなりの数え方による正確な調律法も確立し、平均律が標準の座を奪いました。しかしウェル・テンペラメントは過去の遺物にはなっていません。古楽演奏の現場ではバロック作品を当時の響きで再現するために日常的に使われ、電子キーボードの多くにもヴェルクマイスターやキルンベルガーがプリセットとして搭載されています。「均質さは自由と引き換えに個性を消す」という音律史の教訓を、実際の響きとして体験できる音律なのです。