倍音列
Overtone Series ・ ばいおんれつ
ひとつの音に含まれる整数倍の周波数の系列。音色と協和の物理的な源泉
概要
ピアノで低い「ド」を1つ弾くと、私たちの耳には1つの音として聞こえます。しかしその音波を分析すると、実は基本となる周波数(基音)だけでなく、その2倍・3倍・4倍…という整数倍の周波数の成分が同時に鳴っています。この整数倍の成分たちを倍音、基音から倍音へと連なる系列を倍音列と呼びます。1つの音は、じつは「音の和音」のような多層構造をしているのです。
倍音は普段、個別には聞き分けられず、全体がひとかたまりの音高と音色として知覚されます。しかし倍音列は音楽の水面下で決定的な働きをしています。楽器ごとの音色の違いは倍音の混ざり方の違いですし、「ドとソはよく溶け合う」といった響きの協和も、倍音列に由来します。オクターブや完全5度といった基本の音程が単純な周波数比を持つのは偶然ではなく、倍音列という自然現象の中にあらかじめ刻まれているのです。倍音列は、物理としての音と、理論としての音楽をつなぐ蝶番といえます。
なぜ生まれたか
倍音列は発明ではなく発見です。そして発見される前から、音楽家たちはその存在を実地で利用していました。バルブのない時代のホルンやトランペットは、唇の張りを変えるだけで1本の管からド・ソ・ド・ミ・ソ…と複数の音を出しましたが、この出せる音の並びこそ倍音列そのものです。また弦楽器の奏者は、弦に軽く触れて澄んだ高い音を出すハーモニクス奏法を古くから知っていました。しかし「なぜ同じ弦・同じ管からこの特定の音の並びが出るのか」「なぜ楽器ごとに音色が違うのか」を説明する枠組みはありませんでした。
答えは18〜19世紀の物理学がもたらしました。弦や気柱の振動は、全体が揺れる基本振動と、2分の1・3分の1…に分かれて揺れる部分振動の重ね合わせであることが解明され、フーリエの「どんな周期的な波も正弦波の和に分解できる」という定理がそれを数学的に一般化します。さらにヘルムホルツが、音色の知覚は倍音の強さの配合で決まることを実験的に示しました。経験則だった音色と協和の謎が、倍音列という1つの構造で説明できるようになったのです。
詳細
弦はいくつもの振動を同時にしている
張った弦をはじくと、弦は全体が1つの弧を描いて揺れる振動(基本振動)だけでなく、中央を節として2つに分かれる振動、3つに分かれる振動…を同時に行います。n個に分かれた振動の周波数はちょうど基本振動のn倍になるため、出てくる音は基音の整数倍の周波数の重ね合わせになります。管楽器の中の空気の柱でも同じことが起こります。ハーモニクス奏法は、弦の中央に軽く触れて「2分の1に分かれる振動以外を殺す」ことで第2倍音だけを取り出す技であり、倍音列の存在を指先で確かめる実験でもあります。
倍音列を音名で読む
基音を低い「ド」(例として65.4Hz、チェロの最低音域のド)とすると、倍音列は次のように並びます。第2倍音は1オクターブ上のド、第3倍音はさらに完全5度上のソ、第4倍音は2オクターブ上のド、第5倍音はその上のミ、第6倍音はソ、第8倍音は3オクターブ上のドです。上に行くほど隣り合う倍音の音程は狭くなっていき、オクターブ → 完全5度 → 完全4度 → 長3度 → 短3度…と、音楽の基本音程が次々に現れます。第4〜6倍音(ド・ミ・ソ)が長三和音をなすことにも注目してください。和音の響きの原型が、1つの音の内部にすでに含まれているのです。
協和の物理的な根拠
2つの音が心地よく溶け合うか濁るか — 協和と不協和の感覚は、倍音列で大部分を説明できます。周波数比が1:2(オクターブ)や2:3(完全5度)のように単純な2音は、互いの倍音の多くがぴったり重なり、響きが溶け合います。逆に比が複雑な2音は、近接してずれた倍音どうしが濁りやざらつきを生みます。倍音列に現れる単純な比の音程を積み上げて音階を設計しようという発想が、完全5度を重ねるピタゴラス音律や、長3度にも純正な比4:5を使う純正律といった音律の出発点になりました。
音色は倍音のレシピ
同じ高さの音でも、フルートは倍音が少なく澄んだ音、バイオリンは倍音が豊かで艶のある音、クラリネットは奇数次の倍音が目立つ独特の音がします。どの倍音がどれくらいの強さで含まれるか(スペクトル)と、その時間変化が音色の正体です。イコライザーで特定の帯域を持ち上げる、シンセサイザーで倍音を足し引きして音を作る、合唱で母音をそろえて響きを溶かす — 音作りの実務は、いずれも倍音のレシピの調整だと言い換えられます。
下の部品で、第1〜第8倍音の配合を自分の手で変えながら、波形と音色がどう変わるかを確かめてみてください。
バーを上下にドラッグして倍音の配合を変え、「鳴らす」で聴き比べてください。鳴らしたまま動かすと音色が連続的に変わります。
落とし穴 — 倍音列は音階そのものではない
倍音列を「自然が定めた音階」と早合点するのは典型的な誤解です。図で赤く示した第7倍音は平均律のシ♭よりはっきり低く、第11倍音・第13倍音も12音のどれにも一致しません。倍音列はあくまで単純な整数比の系列であり、実際の音階や音律は、そこから使える音程を取捨選択して人間が設計したものです。また、ピアノの弦は硬さのために倍音が整数倍よりわずかに高くなる(インハーモニシティ)ため、調律ではオクターブをわずかに広げて取ります。鐘や太鼓のように倍音が整数比から大きく外れる楽器では、音高の感覚自体が曖昧になります。倍音列は音楽の土台ですが、土台の上に何を建てるかは文化と設計の問題なのです。
