乗数効果
Multiplier Effect ・ じょうすうこうか
最初の支出が所得と消費の連鎖を生み、GDPを元の額の何倍にも押し上げる効果。大きさは漏れで決まる
✦ 30秒で試す — 航海1兆円の公共事業で、所得が何兆円も生まれることがある生まれる所得の合計が大きいのは?予想してみる概要
乗数効果は、最初の支出が経済の中を巡るうちに、元の金額の何倍もの所得(GDP)を生み出す現象です。政府が公共事業に1兆円を支出すると、その1兆円は建設会社の売上になり、そこで働く人の賃金や会社の利益になります。賃金を受け取った人はその一部を食事や買い物に使い、それが飲食店や小売店の売上・所得になり、その所得の一部がまた支出されて……という連鎖が続きます。「誰かの支出は誰かの所得である」という関係が繰り返されるので、最初の1兆円が生む GDP の増加は1兆円では止まりません。
最終的に GDP が最初の支出の何倍増えるかを示す数字を「乗数」と呼びます。乗数は、政府の景気対策がなぜ「呼び水」になりうるのかを説明する、ケインズ経済学の中心的な仕組みです。ただし連鎖の各段では、所得の一部が貯蓄・税・輸入として「漏れ」、次の支出に回りません。この漏れの大きさで乗数は大きくも小さくもなります。そのため「乗数は実際にいくつなのか」は、財政出動の是非をめぐる現代の論争で最も争われる点になっています。
なぜ生まれたか
1930年代の世界恐慌のさなか、英国では失業対策としての公共事業が政治の争点になっていました。しかし当時の正統派、とくに英国大蔵省の見解(Treasury View)は、政府が使うお金は税や借金で民間から吸い上げたもので、政府支出は民間の支出を置き換えるだけだ、というものでした。経済全体のパイは増えず、財政を悪化させるだけの愚策だ、というわけです。「公共事業で景気は良くなる」という直感には、理屈の裏付けがありませんでした。
これに答えたのが、ケインズの弟子リチャード・カーンが1931年の論文「国内投資と失業の関係」で定式化し、ケインズが1936年の『一般理論』の柱に据えた乗数の理論です。鍵になる発見は、失業者や遊休設備がある不況期には、政府の追加支出は民間の支出を置き換えるのではなく、使われていなかった人と設備を動かす純増になる、ということでした。しかもその効果は一巡では終わらず、所得→消費→所得の連鎖で積み上がります。「支出1単位が何倍の所得を生むか」を数式で示せたことで、財政政策は初めて「どの規模の対策で、どれだけの効果が見込めるか」を計算できる政策手段になりました。
詳細
連鎖の仕組みと乗数の式
乗数の大きさを決めるのは、人々が追加の所得のうちどれだけを消費に回すかです。この割合を限界消費性向(c)と呼びます。教科書でよく使われる c = 0.8(追加所得の8割を使う)で計算してみましょう。政府が1兆円支出すると、1段目で1兆円の所得が生まれ、そのうち0.8兆円が消費されます。2段目ではその0.8兆円が誰かの所得になり、0.64兆円が消費され……と続きます。合計は 1 + 0.8 + 0.64 + … という等比級数で、1 ÷ (1 − 0.8) = 5兆円に収束します。
ここでよく誤解されるのが、「お金が回るたびに増幅される」というイメージです。実際には逆で、各段の所得は前の段より必ず小さくなります。増えていくのは、段ごとに縮む所得を足し合わせた合計のほうです。下の図のように、縮んでいく棒を右に積み上げると、合計は5兆円の天井に近づきますが、超えることはありません。
図の青い部分に注目してください。各段で漏れた分を全部足すと、0.2 + 0.16 + 0.128 + … = 1兆円、つまり最初に注入した金額とちょうど同じになります。最初のお金は最後にはすべて漏れきり、それまでに所得が何回生まれたか — それが乗数です。だから乗数は「1 ÷ 漏れの割合」で決まります。
3つの「漏れ」— 現実の乗数はずっと小さい
乗数5という教科書の数字を現実に期待してはいけません。漏れの経路は貯蓄だけではないからです。第一に貯蓄 — 将来不安が強いと、所得が増えても人々は使わずに貯め込みます。第二に租税 — 所得が増えるとその一部は税として政府に戻り、次の消費には回りません。第三に輸入 — 消費の一部が海外製品に向かえば、その所得は国内ではなく海外で発生します。所得1円あたり貯蓄に0.15、税に0.15、輸入に0.2が漏れるなら、漏れの合計は0.5で、乗数は 1 ÷ 0.5 = 2 に下がります。輸入依存度の高い小さな国ほど、単独の財政出動が効きにくいのはこのためです。
下の部品で確かめてください。「1兆円を落とす」と、段ごとの所得の棒が縮みながら降りていき、漏れた分が右の壺に落ち、GDP の増加が柱に積み上がります。壺の口の右端をつかんで広げたり細めたりすると、連鎖の長さと合計がどう変わるかが見えます。
「1兆円を落とす」を押してみてください。各段で所得の一部が右の壺に吸われ、残りだけが下の段へ降りていきます。
左: 段ごとに受け取る所得(金=次の段で使われる分、色=壺に漏れる分)。中: 貯蓄・税・輸入の壺(口の右端をつかんで広さを変える)。右: 積み上がる GDP の増加
支出か、減税か — 均衡予算乗数
同じ1兆円でも、公共事業と減税・給付では乗数が違います。公共事業は政府が直接モノやサービスを買うので、最初の1兆円からそのまま GDP です。減税や給付の1兆円は、家計の手取りを増やすだけで、まだ誰も何も作っていません。使われた c の分から連鎖が始まるので、減税の乗数は c ÷ (1 − c)、c = 0.8 なら4で、支出の乗数5よりちょうど1小さくなります(部品の「減税・給付」で確かめられます)。
ここから意外な結論が出ます。政府が支出を1兆円増やし、同時に1兆円増税して赤字を出さないようにすると、GDP は 5 − 4 = 1兆円増えます。この「均衡予算乗数は1」という結果は、ハーヴェルモが1945年に示したもので、財政赤字を出さなくても支出の組み替えで需要を作れることを意味します。ただし、これは税を払う側と支出を受け取る側の限界消費性向が同じだという単純な仮定の上の話です。
乗数は逆向きにも働く
乗数効果は負の方向にも同じ力で働きます。政府が緊縮のために支出を1兆円削減すると、所得を失った人が消費を減らし、その分だけ別の誰かの所得が減る連鎖が起きます。2010年代の欧州債務危機では、緊縮財政を課された国々の GDP が予測を大きく超えて落ち込みました。IMF のブランシャールとリーは、2012年10月の世界経済見通し(WEO)で、予測に使われていた乗数(0.5程度)に対して危機後の実際の乗数は 0.9〜1.7 だったと分析し、不況期の乗数を過小評価していたと認めました。増税や支出削減のタイミングを誤ると、税収の分母である GDP ごと縮んでしまい、財政赤字の削減という当初の目的すら達成できないことがあります。逆に、不況時に自動的に給付が増えて税負担が軽くなる自動安定化装置は、この負の連鎖を各段で弱める仕組みです。
乗数はいくつなのか — 現代の論争
現実の乗数は、経済の状態と政策の設計に強く依存します。日本の公的な推計の例として、内閣府経済社会総合研究所の「短期日本経済マクロ計量モデル(2022年版)」では、実質 GDP の1%に当たる公共投資を続けて増やすと、実質 GDP は1年目に1.1%程度増えます。乗数にして1をわずかに上回る程度で、教科書の5とは桁違いです。この試算でも、中央銀行が短期金利を据え置くと仮定すると乗数は大きくなります。景気の過熱に金融政策が利上げで応じれば、政府支出が民間投資を押しのけるクラウディングアウトが起きて、乗数はさらに小さくなるからです。
減税・給付の乗数はさらに小さくなりがちです。2020年に日本で1人10万円が配られた特別定額給付金について、金田・久保田・田中(2021年)が家計簿アプリのデータで調べたところ、受け取ってから6週間で消費に回ったのは給付額の6〜27%程度で、大半は預金として残りました。コロナ禍で使う機会そのものが限られていたことに加え、いつ収入が戻るか分からない不安が貯蓄を増やしたと考えられます。さらに、借金で賄った減税は将来の増税で返すことになると家計が見通せば、今の手取りが増えても使わずに備える、という考え方もあります。バローが1974年に定式化したリカードの中立命題(リカードの等価定理)で、この見方が極端に成り立てば減税の乗数はゼロになります。
実務的な教訓はこうまとめられます。乗数効果は「政府支出は常に何倍にもなって返ってくる魔法」ではなく、「漏れの大きさ、不況の深さ、金融政策の反応次第で、1を大きく超えることも下回ることもある増幅装置」です。景気対策のニュースで「事業規模○○兆円、GDP 押し上げ効果○%」という試算を見たら、背後でどんな乗数が仮定されているのか、今の経済はその仮定に合う状態なのかを問うのが、この概念の正しい使い方です。
試問
輸入品を多く買う経済です。どの段でも、所得の2割は輸入として海外に漏れてしまいます。
輸入の壺(桃色)は口の広さが 20% で固定されています。貯蓄と税の壺の口をつかむか下のボタンで5%ずつ細め、「1兆円を落とす」で確かめてください。
左: 段ごとに受け取る所得(金=次の段で使われる分、色=壺に漏れる分)。中: 貯蓄・税・輸入の壺(口の右端をつかんで広さを変える)。右: 積み上がる GDP の増加
